よく戻れたな!と冷たいヤンに、信者になってください!と願うKYなユン・ボベ。
神父のもとに帰るか首を切れ!と家系図を突き返してヤンが追い出そうとすると、
信者は自決できないのであなたの手で殉教させてください・・・と泣きます。
大王大妃(貞純王后)が従兄弟キム・グァンジュと府院君(予定)キム・ジョスンに
五家統治(オガトンチ)=五家作統法(オガジャクトンポペ)の施行を命じました。
これは成宗16年に領議政ハン・ミョンフェの上奏でできた、5世帯1組の監視制度。
もちろん天主教を効率的かつ徹底的に取り締まるのが大王大妃の目的でした。
こうして純祖元年(1801年)辛酉(しんゆう)年の辛酉大迫害で捕らわれたのが
クォン・チョルシン(鹿庵)、イ・ガファン(錦帯)、イ・ スンフン(蔓川)たち。
チョン・ヤクチョンは、殉教の様子を記録して北京へ送れとファン・サヨンに命じ、
オ・デインには書物を持ち出せと指示して自分と仲間に起こる悲劇に備えます。
亡き息子イ・ビョクが天主学に関わっていたため辞職を願い出たイ・ブマンは、
辞職は許さないわ!あーたが審問するのよ!と大王大妃に命じられて可哀想です。
2月21日、67歳のクォン・チョルシンが厳しい取り調べに耐えかねて逝去します。
イ・イクの弟子で、南人派でもっとも年配の指導者だったクォン・チョルシンは、
天真庵で講学会を主導した人物でもあり、天主学の柱ともいえる存在でした。
5日後、チョン・ヤクチョン、イ・スンフン、チェ・ピルゴン、チェ・チャンヒョンら
指導者6人が西小門の近くで処分され、次はついに女性が標的に!?という流れに。
両班の女性まで捕えるというのは前代未聞だそうで、大臣たちもちょっとびっくり。
先王の築いたものが台無しにされ、恵慶宮も大妃(孝懿王后)も落ち込みます。
「幼い殿下のためにあえてやってるのよ!」と大王大妃は抗議を聞き入れません。
ってことで、恩彦君と夫人ソン氏と嫁シン氏に、見せしめとして賜薬が下されます。
カン・ワンスクは焼き鏝じゅーじゅーされても神父の居場所を吐きませんが、
逃げる途中だったチュ・ムンモ神父になぜか彼女の叫び声が届き、自分から出頭。。
3月14日に大王大妃(と横に座ってるだけの幼い純祖)がみずから審問しました。
4月19日、チュ・ムンモ神父に刀が振り下ろされた瞬間には、嵐が起こったとか。
51歳で没した神父の最期は『ファン・サヨン帛書(ペクソ)』に記されています。
カン・ワンスクと姑、ユン・ボベ、ムン・ヨンインたちは、5月23日に一斉に殉教。
士大夫の女をこのように処分したのは、朝鮮王朝史上はじめてのことだそうです。
ソナを置いて、息子ファソンと一緒に旅立ったヤンは、流浪の身となるのでした。
―― 完 ――
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