思悼世子(サドセジャ)を助けるために判府事チョ・ジェホ(前右議政)が上京。
その頃、世子妃父ホン・ボンハンと世子妃叔父ホン・イナンはこう話し合います。
「世孫様が亡き孝章世子の養子になれば世子妃様は大妃になれないではないか。
(孝章世子夫人兄の)チョ・ジェホが逆臣になれば養子の話はなくなるだろう」。
こうして世子を助けたくない老論派キム・サンノと結託した府院君キム・ハングと
さらにホン・ボンハン&イナン兄弟が同盟を組んでチョ・ジェホを陥れることに。
(たぶん世子の側近だったチョ・ユジンとオム・フンボクも尋問されてます)
息子を米びつに閉じ込めて6日目の夜、英祖は生死を確認させました。
大妃になれなくてもよいから世子様を助けて!と世子妃が父ホン・ボンハンに頼み、
意外なことに王妃(貞純王后)も父キム・ハングに頼みますが、頷いてくれません。
黒幕はキム・サンノだ!ハメられた・・・と英祖がちょっぴり後悔しはじめても、
父王の命を狙ったという罪とあっては救命の上書は来ず、許すきっかけもナシ。
閉じ込められて8日目の英祖38年(1762年)5月20日、ついに悲劇が訪れました。
世子妃と憧れの青山について語らった日々を米びつの中で思い出していた世子が、
あなたを愛しています・・・と父への愛をつぶやいて息を引き取ったのです。
淑儀ムン氏も、キム・サンノと愉快な仲間たちも、めでたい結末に高笑い。
コイツらは賭博師よりも愚かだ・・・とムン・ソングクが胸の内で馬鹿にします。
実家にいても世子の死を感じたエスパーな世子妃は子供たちに父の他界を伝え、
父上はおそらく青山で暮らされているだろう・・・と涙を流しました。
英祖の次男である思悼世子の名はソン。1735年に生まれ、27歳で亡くなりました。
世子妃の恵嬪ホン氏は、後に正祖になったサンのほかに二人の郡主を産み、
側室の淑嬪イム氏は恩彦(ウノン)君と恩彦君の二人の王子をさずかり、
貴人パク氏は恩全(ウンジョン)君と淸瑾(チョングン)翁主をもうけました。
世戸の命日が5月20日ではなく21日になったのは、英祖が二度も生死を確認させ
米びつの釘を抜くなどするのに時間がかかり、その翌日に葬儀をしたからとか。
偉大な夢が党争の犠牲になったのを不憫に思った民は「米びつ大王」と呼びました。
―― 完 ――
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