ドラマ「大王世宗」にしばしば女真族問題が出てくるように、
世宗は北方の安定に力を注いでいました。
女真族で起こった内紛を好機と見た世宗は、
キム・ジョンソを咸吉道(ハムギルド)都節制使(トチョルチェサ)に任じます。
世宗17年(1435年)のことでした。
実は世宗の時代までの朝廷には
「太祖の故郷である北方には厳しくするな」という穏健派も多く、
キム・ジョンソもそんな穏健派の一人でした。
しかしキム・ジョンソはイ・ジンオク(李澄玉)などに助けられながら
10年近くかけて六鎮(ユクチン)=豆満江(トゥマンガン)周辺の6つの城を開拓。
豆満江を国境と確定することに成功し、女真族を内陸へと押しやりました。
この六鎮開拓は世宗のすぐれた業績として評価されているそうです。
六鎮の開拓は文臣より立場の低かった武臣たちに
中央政界への進出をもたらした出来事でもありました。
一介の官僚にすぎなかったキム・ジョンソも重臣たちの信頼を得て、
慶尚三都巡察使、議政府右賛成などを歴任することになります。
(「大王世宗」ではたしか礼曹判書にもなっていました)
世宗亡き後の文宗時代には右議政の地位まで上り、
文宗からは「世子を頼む」という遺言を受けた顧命(コミョン)大臣に。
同じく顧命大臣である領議政ファンボ・イン(皇甫仁)とともに
次の王である幼い端宗を補佐し、左議政へと昇進します。
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