光海君5年(1613年)6月1日、謀反の罪に問われた延興府院君キム・ジェナムが
西小門の自宅で賜薬を飲みました(カン・ホンリプはじめすごい見物人です)。
強硬な公論を反映した王命書を作成したのはクォン・ジンという人だそうです。
19歳で宣祖と結婚し、25歳で先立たれ、30歳で父を亡くした大妃(仁穆王后)。
礼曹からの訃報が届いて初めて喪服を着ることができるのに、訃報が来ません。
そこでオム尚宮がキム・ゲシ尚宮(ケシ/ケトン)に恐る恐るお願いに行くと、
は?大逆人なのに?気になるなら礼曹にきけば?と意地悪ーく言われます。
その礼曹は、おそろしく真っ暗な部屋の中で、ろうそく1本つけて論議中。
礼曹参議ユ・スクは強硬派で、参判オ・ベクリョンは穏健派のようですね。
強硬派はイ・イチョムに、穏健派は領議政イ・ドクヒョンに相談しています。
光海君は領議政イ・ドクヒョンの提言を聞き入れ「簡素に礼を尽くせ」と命令。
しかし領議政の「息子と母の天倫」という言葉がカンに触って激怒しました。
その後、大妃の実家は兵に囲まれ、6年間も外部との接触を立たれたとか。
領議政イ・ドクヒョン@53歳とと左議政イ・ハンボク@58歳は幼い頃からの親友。
ドクヒョンの雅号・漢陰(ハンウム)とハンボクの君号の一部・亀城(オソン)の
説話が残されているそうですが、そのくわしい紹介はありませんでした。
成均館イ・ハンジンら24人が連名で、永昌大君の死を求める上書を提出しました。
「大君は幼くても、逆賊に擁立されたので、国と朝廷に災いを招く存在です。
ですが大妃様とは縁が切れないので、廃妃を訴えた者を追放してください」
光海君はチョン・ジョを罷免し、大妃のことには触れるなと命令しました。
つづく7月2日、イ・イチョムが音頭を取り、厳罰を求める動きを画策します。
承諾はしたものの「そこまでしなくても・・・」と内心では思っている
領議政イ・ドクヒョンと兵曹判書パク・スンジョンは辞職を申し出ました。
思い悩んだ光海君は、困ったときのキム尚宮!におわたりして相談しました。
キム尚宮は「世論どおりに」と説き、「成均館に示威されますよ?」と脅します。
7月20日、光海君は幼い永昌(ヨンチャン)大君を江華(カンファ)島に配流し、
大妃は宮殿から追放するという王命を下し、4ヶ月間の騒動に終止符を打ちます。
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