癸丑(みずのとうし)光海君5年(1613年)7月30日はとても蒸し暑い日でした。
永昌(ヨンチャン)大君@8歳を江華島へ流罪するという王命が下されましたが、
大妃(仁穆王后)が応じなかったため、朝廷では女医隊を結成しました。
キム・ゲシ尚宮の指揮のもと、力強そうな医女たちが塀を越えて大妃殿に突入。
身分の低いはずの医女なのにけっこうエラそうにペラペラしゃべってます。
こういうことを言うのはアレですが医女たちのお顔の偏差値が・・・(以下自粛)
光海君に慰留された領議政イ・ドクヒョンと兵曹判書パク・スンジョンは、
こんな事態になるなら辞めたかった・・・と二人で心を痛めていました。
(領議政は父親が病気のため、思い切った行動をとれなかったようです)
官職を剥奪されますよ!?とイ・イチョムがそんな二人をせっつきます。
兄弟を助けて父の法要をしてくれたら永昌大君を渡すと大妃が要求するも、
キム尚宮はそれを光海君には伝えず、義禁府に命じて大妃殿の女官にむち打ち。
響き渡る宮女の叫び声が大妃をおののかせ、やがて二人の宮女が死亡。
大妃と永昌大君と貞明大公主はそれぞれ尚宮におんぶされて大殿へ向かいます。
大妃、つづいて貞明公主が通り過ぎたところで、義禁府がシャットアウト。
事前に順番を話し合ったのに、あっさり永昌大君と引き離されちゃいました。
(私が大妃なら自分で永昌大君を背負いますが・・・やんごとなき方なので無理?)
この場面、息子と引き離されて泣き叫ぶ大妃がお気の毒でたまりませんでした。
永昌大君はすぐには江華島に連れて行かれず、ひとまず貞陵洞の屋敷に逗留。
不自由なく暮らせるように江華島の家を整えよ!と光海君が命じるのでした。
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