光海君15年すなわち仁祖元年(1623年)3月13日の夜、29歳の仁祖が即位。
光海君に続き、王妃ユ氏と世子夫妻、イ・イチョムとユ・ヒブンも捕えられ、
軍を動員できる領議政パク・スンジョンの行方だけがわからないままでした。
教書がまだ頒布されていないため新王のことは地方には伝わっておらず、
パク・スンジョンが地方の兵を挙げればそれが官軍となってしまいます。
彼と息子ジャフン(京畿道の監事)が水原府の兵を動かそうとしていた矢先、
教書が下されたました!出陣できません!とパク・アンネという男が報告。
パク・スンジョンとジャフンは、1本の縄で首をしばり池に身を投げました。
新しい領議政にはイ・ウォンイク(ウォニク)が請われ、吏曹判書はシン・ウム、
刑曹判書ソ・ソンまではすんなり決まりましたが、兵曹判書選びで揉め事発生。
義挙の日に弘済院に現れずに慕華館に現れたキム・ユをイ・グァルが罰そうとし、
反対したイ・ギらが指揮権をキム・ユに戻して突入したという経緯があったため、
兵曹判書候補のキム・ユのことをイ・グァルが頑として認めなかったのです。
かかわった全員が功臣だ・・・と仁祖がその場をおさめて宴会を開きましたが、
KYなイ・グァルは宴会の最中もキム・ユを睨みつけたりして雰囲気ぶちこわし。
ムカついた仁祖がその宴会の場でキム・ユを兵曹判書に指名しちゃいました。
仁祖反正から6日後の3月19日、光海君の側近だったイ・イチョム、ユ・ヒブン、
イ・ウィギョン、イ・ホンイク、パク・ウンソらが処分されました(あっさり)。
チョン・ジョとイ・ウィギョンはすでに死んでいたのを首を切られたようです。
西宮に幽閉されていた大妃(仁穆王后)の恨みはそんなことでは収まらず、
3月20日にハングルで書いた備忘録を重臣たちに渡して光海君の処罰を求めます。
「なぜ廃君がまだ宮殿にいるのか?早急に流刑せよ!そしたら昌徳宮へ行く!」。
そこで仁祖が光海君の配流地を報告しにいくと(燕山君と同じ江華島の喬桐)、
思い出してみたら36の罪があったから書いといたわ!と言われて引いてます。
ってことで大妃が光海君ファミリーを簾の向こうに座らせて「大声で読め!」。
父(宣祖)と兄(臨海君)と異母弟(永昌大君)と大妃父を殺したこと、
大妃の母を追放したこと、自分を幽閉したこと、オランケと和親したこと・・・。
涙ながらに読み上げる光海君に怒りをぶつけまくった後で部屋から追い出します。
49歳の光海君と26歳の世子を江華島まで護送したのは、前述のイ・グァルでした。
後金に抑留されたままのカン・ホンリプは、後金の学者の娘と結婚していました。
朝鮮で起こった政変と、新王と首謀者の顔ぶれを知ると、言葉を失います。
仁祖の即位により、朝鮮の外交対策が変わり、後金は再びオランケ扱いに。
まずはチャン・マン(チェ・ミョンギルの義父)が都元帥に任命されました。
副元帥と平安道の監事になったイ・グァルは「キム・ユの差し金!」と怒ります。
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