チャンヒビン第21話「明聖王后の死」
大妃は女官たちに薄氷の張った冷水をかけさせて儀式を続けていました。
臣下たちは大妃を止めようと現場にかけつけます。
そこへ、粛宗が回復したとのしらせが!
それを知った大妃が粛宗のもとへ行こうとしたそのとき、倒れてしまいました。
粛宗の病はみるみるうちに回復。
御医ユ・サンはこのとき、熱病には禁物とされる高麗ニンジンを薬に入れて
粛宗を治療し、このことで昇進したそうです。
目を覚ました粛宗は、母が倒れたと知り、大妃殿へ。
回復したばかりの殿下になぜ私が病気だと知らせたのだ!?と
大妃が側近を責めているところへ粛宗が入ってきました。
オモニ・・・と呼びかけやさしく大妃の頭をなでる粛宗。
私には息子などいませんと大妃は拒み、
宮殿に入るときに自分の名前さえも忘れて生きてきたと告白します。
母の死の間際に、粛宗は大妃の深い愛情を知るのです。
大妃と反目しあっていた大王大妃も、大妃が危篤と聞いて落ち着かないよう。
大妃が嫌っているこの年寄りが来ましたよ!生きてください!
あんなにいじめておいて先に逝くなんて!と必死に呼びかけます。
宮殿で女が生き残るのにはああするしかなかったとお互い知っていた、
また生きて嫌い合いましょう・・・と泣く大王大妃に、
親不孝をお許しくださいと返答する大妃。
最後に大妃と粛宗は母と息子として抱き合います。
そして大妃は、強い国王になれと言い残し、粛宗の腕の中で息を引き取りました。
ああ、このドラマには本当の悪人はいないのですねえ・・・
「女人天下」とはえらい違いですよ。
このとき明聖王后(ミョンソン王后)は42歳。
10歳で世子嬪となり、夫に愛され、朝鮮王朝で側室のいない唯一の王妃でした。
政治にも介入し、文定王后(女人天下の)の再来ともいわれたそうです。
大妃が亡くなると、結束していた西人派は老論派と少論派に小分裂。
粛宗は喪があけると、右議政を大妃いとこで叔父のキム・ソクチュから
ナム・グマン(少論派)に変更します。ナム・グマンは西人派ではありましたが
党派をこえた公正さをもち、粛宗に信頼された人物だそうです。
官職をとかれたキム・ソクチュは、大妃の言葉を思い出していました。
自分が死んだら先に朝廷から退けと言われていたのに、実行しなかったのです。
母を失ったうえに今も一人寝を続ける粛宗をみかねた大王大妃は、
オクチョンを呼び戻しては?と提案。王妃も同じことを考えます。
もはやオクチョンの入宮は避けられないと判断した西人派は、
その前に正式な側室を入れさせることを条件としました。
嘉礼庁を設置し朝見の礼まで行うなど王妃の入宮に匹敵するような格式を経て、
領議政キム・スハンの従孫であるキム淑儀(スギ)が側室となりました。
これは西人派の意図で行われたことで、粛宗には不愉快なことだったそう。
もちろん、大王大妃もオクチョンも憤慨してます!
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「女人天下」「張禧嬪」ともに鑑賞中なので、
>ああ、このドラマには本当の悪人はいないのですねえ・・・
>「女人天下」とはえらい違いですよ。
に噴出してしまいました^^
あらすじ紹介、大変重宝しております。