左議政キム・ジョンソは二人の大君の謀反の動きを端宗に伝えると、“首陽大君が明日動く”と安平大君に伝えて用心を促す。そして当日、屋敷で開いた弓大会に集った弓上手たちを前に首陽大君が演説。同意した少数の者たちが参謀ハン・ミョンフェの指揮のもと出陣することになった。妻ユン氏は夫に鎧を着せて送り出す。
護衛を大増員して待ち構えていたキム・ジョンソだったが、訪問者が首陽大君と執事イム・ウンだけと知ると、やすやすと招き入れた。するとイム・ウンが隙をついてキム・ジョンソと息子を襲撃。次に首陽大君は寧陽尉邸へ向かい、安平大君らの計画を察知したのでキム・ジョンソを始末したと端宗に報告。対応の全権を委ねてもらうと、重臣たちに登庁を命じて一人ずつ屋敷内に呼び入れながら殺める。その頃安平大君宅は間者チョ・ドゥンニムの放火により混乱に陥っていた。端宗元年(1453年)10月10日の夜に始まった粛清(癸酉靖難)は翌日の朝まで続き、安平大君派は命を落とすか処分された。
譲寧大君は端宗の頼りなさを責め、首陽大君への譲位を公然と口にする。端宗は首陽大君を領議政に任じるとともに、人事権と兵権も委ねた。辞令が発表されると、要職者をはじめハン・ミョンフェら粛清功臣が安平大君の処分を求め始め、首陽大君は同意しないものの譲寧大君が端宗に決断を迫り、安平大君は自決させられた。
処分につぐ処分にうんざりする気配が漂う折、“恵嬪ヤン氏は浄業院へ行くべき”という議論が持ち上がったのを機に、端宗の首陽大君に対する態度が一変。粛清を否定するかのような発言をし、首陽大君が進言した婚礼も拒否する。首陽大君は席藁待罪した後、自宅で謹慎する。そんなとき、キム・ジョンソの忠実な部下イ・ジンオクがみずからを大金皇帝と名乗って咸吉道で反乱を起こす。なす術を知らない端宗から国中の兵を指揮監督する権限を与えられた首陽大君は勇ましく出征し、反乱を平定させた。
端宗は再び首陽大君に心酔し、重臣らは首陽大君の追従者と化す。一方で、最たる功労者であるハン・ミョンフェが司僕寺少尹にとどまっていたため、自分たちが冷遇されているとして功臣たちが憤り、首陽大君の執り行った会盟儀に反発を示す。また左議政チョン・インジが首陽大君の方針を疑問視するようになり、同じ集賢殿出身のシン・スクチュがなだめる。錦城大君や永豊君(恵嬪息子)も首陽大君と対立の姿勢をあらわにしていた。
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