王妃ユン氏が成宗の顔を傷つけたと知った仁粹大妃は、重臣を招集して廃妃を認めさせる。イム・サホンは辞職していたため、仁粹大妃の前で王妃を擁護する者はおらず、その夜のうちに宮殿を追い出された。復位を求めて連座した儒生や学者は捕らえられ、中心人物となるはずのヒョン・ソッキュは先の弾劾をきっかけに地方へ赴任していた。
三ヵ月後、名門の後ろ盾をもち息子のいないユン淑儀が新しい王妃(貞顕王后)に選ばれた。王妃はユン氏に対して寛大な姿勢をみせ、喜んだ成宗が私家で暮らすユン氏に使いをやる。母シン氏以外との接触を禁じられ慎ましく暮らしていたユン氏は、正装して迎え、喜びのあまり泣き崩れ、王妃が下賜した宝石を殊勝な気持ちから返す。
成宗も大王大妃(貞熹王后)も、世継ぎの生母であるユン氏を離宮に住ませたいと願っていた。だが大妃殿のイム尚宮やチョン貴人らに言い含められたパク内官とチェ尚宮が「ユン氏は反省するどころか王室を呪っていた」と報告。ユン氏の処分を仁粹大妃に強く迫られた成宗は観念し、賜薬を下すと決めた。領議政チョン・チャンソンもハン・ミョンフェも、この恐ろしい事態を傍観したことに震える。
12年後の成宗25年、世子ユンは19歳になった。生母ユン氏のことは緘口令がしかれていたものの、周囲の自分を見る目がおかしいと感じており、王大妃(安順王后)の息子で風流人の斉安大君と親しくしていた。仁粹大妃は王妃の産んだ晋城大君(後の中宗)を寵愛していたため、世子妃シン氏の兄シン・スグンが世子の将来を心配する。イム・サホンは成宗の娘・徽淑翁主の舅となるも朝廷では冷遇され、今はユン氏の母シン氏をかくまっており、世が変わるのをユ・ジャグァンともども待ち望んでいた。
聖君の誉れ高い成宗が38歳で逝去した。仁粹大妃は二日経っても後継者を指名せず、仏教行事である水陸斎を希望して世子を試す。祖母に逆らうなという成宗の遺言を思い出した世子は、臣下の反対を無視して水陸斎を敢行させた。それでも次王を決めない仁粹大妃だったが、世子を変える理由もなく、成宗の遺言どおりに世子を即位させる。崩御の5日後にようやく王となった燕山君は、すぐに生母に関する記録を取り寄せた。
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