それなら賢い世子が王になればいいジャン!と世祖はいじけまくり、
必死にとりなそうとする伯父・譲寧大君のことも怒鳴りつけました。
世子(海陽大君・後の睿宗)と王妃(貞熹王后)が席藁待罪(ソッコデジェ)。
(二人とも正装なので大殿の前でただ詫びているだけかもしれません)
失言をした領議政チョン・チャンソンを重臣たちがこぞって弾劾すると、
功臣を罪には問えない・・・と口では言いながらも世祖は満足そう。
結局チョン・チャンソンは全羅道の砺山(ヨサン)に流刑されました。
癸酉靖難(ケユジョンナン)から12年後の世祖8年(1462年)5月20日、
領議政シン・スクチュ、左議政クォン・ナム、右議政にはハン・ミョンフェが就任。
政丞がすべて弱冠50歳というのは李氏朝鮮王朝最初で最後のことだそうです。
昇進を祝って飲み会した3人が、粋嬪ハン氏のことを思い出して訪問しました。
殿下は変わってしまったけど疑心をもたれず最後まで忠心をつくしてください、
そのうち重臣が頭を抱えるようなことをしでかすはずです・・・と言われます。
今回は庶子で野心家のユ・ジャグァンが登場。この頃は宮殿の門番をしています。
ハン・ミョンフェと言葉を交わし、行動を探っているようですよ。
12月19日、世祖が病に倒れました。この病は死ぬまで世祖を苦しめたそうです。
いまだイジイジモード続行中の世祖は北方の女真族対策を理由にして
ハン・ミョンフェを威吉道へ、ヤン・ジョンを平安道へと赴任させました。
世祖9年(1463年)閏7月6日、ハン・ペクリュンの娘(後の安順王后)が
世子の昭訓(ソフン)に任命されました。斉安大君を生む方ですね。
世祖は病のクォン・ナムを辞任させ、左議政の後任にハン・ミョンフェを任命。
チョン・チャンソンを復帰させ、蓬原(ポンウォン)府院君の号を与えます。
世祖10年(1464年)10月24日、ミョンフェの娘が生んだ世孫(3歳)が逝去。
王妃と世祖がおくるみを抱いて渾身の号泣演技をかましてくださいますが、
1ミリたりとも赤子が映りません。おくるみの中は絶対に詰め物だと思われます。
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