成宗は重臣に勉強を教わり、王妃(恭恵王后)は仁粹大妃に国母の心構えを説かれ、
『経国大典』の仕上げは最終段階に。平和な世が再来したと重臣らが大喜びです。
ユ・ジャグァンが今度はキム・シスプ(雪岑:ソルジャム)に近づいていますよ~
明にいるときに、別荘を建てよう♪と思いついたハン・ミョンフェ(上党君)。
そんな彼と明で交流した翰林(かんりん)の碩学・倪謙(げいけん)は
「狎鴎亭(アックジョン)」と命名するとともに立派な扁額や詩を贈りました。
帰国すると夫人ミン氏に別荘を提案されてハン・ミョンフェは驚いたそうです。
自分の不在中に危篤に陥って快復した娘(王妃)とも再会しました。
キム・シスプに汚物をかけられそうになったハン・ミョンフェが、
いまだに死六臣のことをウダウダいうけどお前あのとき何かしたのか?と指摘。
倪謙と仲良くなったせいか雪岑の姿が小さく見えるね~♪とおちょくり、
倪謙直筆の額もあるし別荘に来てね♪と招待してキム・シスプをうなだれさせます。
漢江のほとりに建つハン・ミョンフェの有名な別荘「狎鴎亭(アックジョン)」は
中国の使臣を多くもてなし、宮殿に劣らぬ豪華さだったとの記録があるそうです
狎鴎亭のことを詠んだ詩をほうぼうから20首も贈られてハン・ミョンフェご満悦。
中でも一番のお気に入りは、給事中(きょうしちゅう)陳嘉猷(ちんかゆう)の詩。
親友のシン・スクチュ(高麗君)にせがまれて披露しました。
「あずまやは水と雲の間にうららかに建ち その外をかもめはゆらゆらと漂う
一日中親睦を深め 青い水に身を任せ 時にかもめが近づいてきて 欄干にとまりもする
互いに硬い契りを結び 利己心を忘れたゆえ 公務から退き 朝夕の余裕を楽しむ
誰も官職の話はするな すでに名利からは離れた身なのだ」
この頃の出来事としては、仁粹大妃が有名な『内訓(ネフン)』を記しました。
内命婦が守るべき礼節と法度を古今の書を引用し書き下ろしたもので、
ハングルと漢字を使ったことからも大妃の人柄をうかがうことができるそうです。
『実録』には、ユ・ジャグァンが将棋や囲碁で財を成したともあるそうです。
オレもそろそろ61歳♪かもめと友達になろうかな♪とミョンフェが呟く太平の世に、
王妃がまた倒れ、実家に療養に戻ります。成宗4年(1473年)7月のことでした。
帰省した王妃は、願い叶って狎鴎亭の見学に。しかしそこで倒れてしまいました。
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