冊立式も終わったっつーのに何をガタガタぬかしとるんじゃワレ!と太宗が激怒。
三男・忠寧大君の世子冊立にまっこうから反対意見を述べたファン・ヒと、
ついでに前世子妃キム氏の父キム・ハルロ(光山君)を流刑にしちゃいました。
(譲寧大君が連れてきたオリを匿ったりするなど娘婿を導けなかったのが罪)
ファン・ヒは世宗期にふたたび登用されて李朝最高の名臣として名を残しますが、
外戚キム・ハルロは太宗に追放された哀れな犠牲者として歴史に刻まれました。
死後、譲寧大君の請願により名誉を回復し、左政丞に昇格するとともに
光山君の爵位も取り戻しますが、今は墓すら忘れられている存在だそうです。
さて、22歳で宮殿を追い出されるまで11年間世子だった譲寧大君イ・ジェ。
彼は信じがたいような奇行が『朝鮮王朝実録』に数多く記されている異端児で、
自由を渇望して王室を飛び出したあともヘンな行動は繰り返されたとか。
私も一緒に出て行きたいけど無理ね・・・とそんな息子を見送る王妃(元敬王后)。
いまや府夫人となったキム氏と側妻オリも連れて譲寧大君が広州入りすると、
太宗から監視を命じられている牧使(モクサ)チェ・ゲウォンが挨拶に行きます。
義父上には気の毒だったがこれで命が救われたのだ♪とキム氏に向かって笑い、
今ごろは忠寧の夫人の実家が不安だろう・・・と推測する譲寧大君でした。
「世子は学識は高いがやさしすぎるから現実を教えて君主の心得を叩きこむ!」。
これまでのように誰かを試すためではなく、本気で譲位すると太宗が決めました。
こんなややこしい座を譲った兄上が恨めしい・・・と頭を抱える世子に、
オレも永遠には生きられないし一人より二人のほうがいいだろ?と諭します。
官僚はもちろん譲位反対の座り込みを始め、シム・オンと弟シム・ジョンも参加。
譲位の手続きをはよせんかいっ!と太宗は都承旨チョ・マルセンに命じると、
内禁衛に官僚をつまみださせる実力行使で「本気度」をわからせました。
こんなに早く王位をゆずるなんておかしい!と王妃が思いっきり怪しんでます。
時間がない・・・また悪役になろう・・・とひそかに外戚排除を決意した太宗が、
領議政ユ・ジョンヒョンを呼び、世子妃父シム・オンを領議政にすると話しました。
そして太宗18年(1418年)8月8日、世子になって2ヶ月の忠寧大君が即位(=世宗)。
軍権という絶対的な権力を手放さないまま、太宗が上王(サンワン)になりました。
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