大妃(元敬王后)の病はすべて自分のせいだ・・・と涙目で語る上王・太宗に、
そう思っていらっしゃったとは知りませんでしたと世宗が驚いて打ち明けます。
「なぜ母上に冷たくされたのです?」「すべては私が王座についたせいだ・・・」
君主の座は栄光ではなく苦悩に満ちていることを太宗が世宗に教えました。
王妃(昭憲王后)は太宗への誤解をとき、実家のことも心にふんぎりをつけます。
対馬に上陸した朝鮮軍は、海岸の敵兵を圧倒し、内陸へ入り、海から戻った敵も倒し、
対馬の倭寇を全滅させ、島主・宗貞盛(韓国語で家来に命令してます)の要塞も陥落。
撃破した敵船は129隻、全焼した家屋は1939棟、取った敵将の首100人余りとか。
(「大王世宗」でも思いましたがなんかこの戦になると音楽も様変わりしますね)
厳しくもやさしさにあふれる王命文を読まれた宗貞盛がうなだれて従います。
6月20日に上陸し、数百年に渡る倭寇の拠点をわずか9日間で掃討したこの討伐は、
一般には世宗時代の功績とされていますが実は太宗の勝利だそうです。
(wikiの対馬討伐の記載とニュアンスが違うのですが、上記はドラマの筋です)
長らく登場しませんでしたが、老上王・定宗が離宮で寝込んでいたようです。
太宗に無理やり王座につかされた彼は政務より撃毬に興じるなどして生き残り、
引退後も悠々自適に過ごし、世宗1年(1419年)9月26日に63歳で崩御しました。
そして数ヶ月後の世宗2年5月、12回にわたって場所を変えて療養していた大妃が、
最後の療養先となる元府尹(プユン)イ・メンギュの屋敷に移りました。
死ぬ前に私の実家がどうなったのか知りたい・・・と弱々しく願う大妃に、
太宗がミン兄弟を手厚く弔わせ大妃の甥が祭祀をしているとキム尚宮が教えます。
国境に築いた城塞のおかげで女真族の侵入は減り、集賢殿も成果を出しはじめ、
公役を減らしたせいで民が農業に専念できるようになるなど、治世は安定。
しかし中風で腫れ物も進行している太宗の心は、虚しさでいっぱいでした。
(今回は診察シーンで太宗サマのむっちりとした上半身が拝めますよ♪)
そなたも私もあくせく生きてきたな・・・と回顧しながら大妃に心の中で話しかけ、
ああするしか仕方なかった・・・と側室とのアッハ~ンをちょい言い訳してます。
自分の不孝で母が病気になったと思っている譲寧大君はお見舞いに行っておらず、
やってきた孝寧大君が「見舞いに行きましょう!」と珍しく強い語調で誘います。
すると譲寧大君は、療養先を移すたびに遠くから見に行ったと涙ながらに告白。
カンドーした孝寧大君が、兄上も仏弟子になりませんか?と誘っていますが、
譲寧大君(両脇に夫人キム氏と側室オリをはべらせ中)はさすがに断りました。
こうして譲寧と孝寧につづき、太宗、そして世宗も大妃の見舞いに訪れました。
・・・許しを請いたいと随分前から思っていたのだ・・・と静かに詫びた太宗は、
王になった瞬間から私は人であることを捨てたのだと王座の孤独さを語りました。
「そうでしょうね・・・でも辛すぎました。何度も上王様の死を願いましたが、
やはり私の夫でした。恨んでいましたがいつからかむしろ哀れに思えて来ました」。
実は私も具合が悪くてもうすぐそなたの後を追いそうだ・・・と太宗が病状を話すと、
「許して差し上げます、チョナ・・・哀れなひと・・・」と大妃が目を閉じました。
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大妃(元敬王后)最期は太宗に看取られた(ドラマの中では)ので少し良かったかなって思いました。
一族は悉く葬られて、もうバンウォンさんしかいないもの・・・・ミン氏さんにとっては・・・・。
最終回の予告では上王になるまで数々の出来事(ほとんど暴れているシーン♪)を加えいつもの予告より長めに放送していました。
これは朝鮮王朝創成期のダイジェストかも。
それにしても、太宗にスポットライトをあてた長編大河ドラマが制作されるだなんてバンウォンさんお墓の中で驚いているんぢゃないかなぁw