都が開京から漢陽(現ソウル)に移って数年後、世の中はいたって平和でした。
大きくなった世子(譲寧大君)、孝寧、忠寧(後の世宗)に、末の誠寧も登場~!
勉強好きで優秀な四人の息子をずらりと並べて王妃(元敬王后)はご満悦ですが、
世子の結婚を相談したいのに殿下は側室のとこばっかり!と夫には不満たらたら。
『朝鮮王朝実録』でもうかがえるそうですが、夫婦仲がよろしくないようです。
内禁衛将(チョン執事)はじめ、重臣たちもそろって白髪になってじーさん化。
チョ・ヨンムは太宗も知らない故事成語を披露して学識の高さを褒められてます。
世子の叔父ミン兄弟はふんぞり返り、イ・スクポンと何かにつけて対立中です。
老いた太上王・太祖は、一人むなしく楊州(ヤンジュ)で暮らしていました。
新しい法案を領議政に届けさせて意見を聞くなど、太宗は父に気を遣い続けます。
太祖が敬愛する無学大師は、遷都した1405年の9月に金剛山で逝去していました。
高麗忠粛王14年(1327年)に生まれた無学大師の姓はパクで号は無学(ムハク)。
恭愍王2年(1354年)に元でインドの高僧・指空(しくう)禅師に会って認められ
翌年には懶翁(ナオン)禅師に器の大きさを評価されて弟子になったそうです。
イ・ソンゲが王になると予言し、王師に指名され、漢陽への遷都を助言したり、
父子を和解させて太祖を咸興から帰京させるなど、朝鮮王朝に貢献をしました。
中宮殿に足が遠のいている太宗は、都承旨ファン・ヒに世子妃候補探しを指示。
甥(世子)のことが気にならないの?と王妃はミン兄弟に世子妃探しを命じます。
ミン・ジェは王妃が派遣した侍医を「国の侍医を私事に使えない」と拒んだとか。
太宗は、王妃の生んだ大君たちにはすぐれた学者を師匠につけて教育しました。
孝寧大君と忠寧大君には、科挙の生員試験に主席合格するも官職を辞したイ・ス。
世子にはパク・ポの乱を平定したイ・レと開国功臣で江陵ユ氏の始祖ユ・チャン。
「高麗王朝を滅ぼして兄弟も手にかけて王座を得るのは正しいことですか?」。
ある日、世子に聞かれた二人の師匠が、口をパクパクさせながら焦りまくります。
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