イ・ゴイの息子イ・ジョは、太宗の亡くなった姉である慶慎公主の夫でした。
姻戚の処分について太上王・太祖は「簡単に人の命を絶つな」と気乗りしません。
上王様を復位すべしと言ったらしいな?と太宗に問い詰められたイ・ゴイは、
王権主義は独裁につながり今後もたくさんの血を流すはず・・・とズバリ指摘。
弟を殺した方なら私の首をはねることなど簡単でしょう?と覚悟を示しました。
父上の恩情に免じて命だけは助けてやろうと太宗は平民への格下げと流刑を命令。
姻戚イ・ゴイ親子は、王室に文句をたれた者の末路として格好の見せしめでした。
その処分はあんまりだ・・・と気の毒がっていたチョ・ジュンが会議室で卒倒。
建国功臣である彼は野心がなかったため波乱の世でも身を守り60歳で没しました。
さらに、内臓にこぶがあると診断された都承旨パク・ソンミョンが、いとまごい。
都承旨をお気に入りの太宗は「必ず治すのだ!」と議政府知事へと昇進させます。
キム尚宮(おなじみの太った尚宮役の方)とカン尚宮が、中宮殿の担当に就任。
じゃあ後宮から引き抜かれたカン尚宮が噂を広めたの?と善嬪アン氏が疑います。
おもしろくない王妃(元敬王后)は何度も太宗に会おうとして拒否されました。
遷都を前に邪魔なイ・ゴイが追いやられた後、朝廷の人事も一新されました。
領議政ソン・ソンニン、左議政ハ・リュン、右議政チョ・ヨンム(大カンゲキ)、
イ・スクポンとミン・ムグとパク・ソンミョンの三人は議政府知事に就任します。
議政府参賛にはチョ・バクとクォン・グン、右軍総制にはミン・ムジルが就き、
吏曹判書イ・ジク、兵曹判書イ・チョヌ、吏曹参議メン・サソン、代言シム・オン、
議政府参知パク・ウン、左軍同知総制キム・ハルロと「大王世宗」な面々ですね!
パク・ソンミョンは、刑曹正郎だったファン・ヒを都承旨の後任に推薦しました。
さらにパク・ソンミョンは自分が余命数ヶ月であることをファン・ヒに打ち明け、
誰かが王権に挑むと殿下は考えられないほど冷酷になる・・・と注意を促します。
太宗と同じ布団をかけて寝たほど少年時代から親しかったパク・ソンミョンは、
太宗の即位時に王印を渡し、佐命(チャミョン)功臣平壌府院君の号を授かり、
司憲府大司憲を経て都承旨として太宗に長く仕えた、議政府知事になりました。
生まれつき酒好きで一日中飲んでいましたが、政務は滞りなく行っていたとか。
都体察使として全羅道に向かう途中に金堤駅で37歳の短い生涯を終えたそうです。
そして太宗5年(1405年)10月8日、朝鮮の都が開京から漢陽へと再び移りました。
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