まずは『朝鮮王朝実録』に記されたハン・ミョンフェの一生の記録です。
彼の字は「子濬(チャジュン)」、本貫は清州で、贈領議政ハン・ギの息子。
母イ氏が妊娠7ヶ月で産み、おなかには北斗七星のようなほくろがありました。
幼い頃に父を亡くし、生活は貧しかったそうで、支え合っていた友はクォン・ナム。
風光明媚な地があると聞けば二人で出かけ、1年以上帰宅しないこともあったとか。
文宗2年に敬徳宮直に補職され、遊びに行った霊通寺(ヨントンサ)である老僧に
「頭の上に光が見える。貴い身分になるだろう・・・」と予言されました。
幼い魯山君を残して文宗が逝去すると、彼はクォン・ナムにこう告げました。
「国が危ういのに奸臣が権勢をふるい、安平大君は野心を抱き小輩を集めている。
災禍は目前だ。首陽大君は漢の高祖のように闊達で唐の太宗のように文武にたけ、
乱世を平定するお方だ。そばでお仕えしているのになぜ黙って見ているのだ?」。
それを聞いた首陽大君はハン・ミョンフェを呼び、まるで旧友のように意気投合。
癸酉(きゆう)年(端宗元年)10月10日に挙兵してキム・ジョンソらを誅殺します。
その後ハン・ミョンフェは軍器録事となり、靖難功臣の号を得て、司僕寺少尹、
承政院同副承旨を経て、世祖が王位につくと昇進を重ねて左副承旨になります。
そして秋には左翼功臣の号を与えられ、右承旨に昇進しました。
世祖2年にはソン・サムムンらが魯山君の復位を企てたのを察知して阻止。
この年の秋に左承旨になり、冬には都承旨に昇格しました。
世祖3年の秋に吏曹判書に任命されて上党君に封され、冬には兵曹判書となり、
世祖5年に黄海平安威吉江原道体察使となって都を離れ、世祖6年には崇禄大夫に。
世祖7年には輔国崇禄大夫となり上党府院君と封されて判兵曹事を兼任します。
世祖8年に大匡輔国崇禄大夫議政府右議政、世祖9年には左議政にまでのぼり、
世祖12年にはついに最高の領議政の座につくも病のため辞任しました。
世祖13年、反乱を起こしたイ・シエに謀反の噂を流され、一度は捕らえられます。
世祖14年の秋に世祖が逝去して二男の睿宗(海陽大君)が即位すると
世祖の遺命により数名の大臣と承政院に宿直して庶政を取り仕切ったそうです。
彗星を見て「異変の現れ。昌徳宮には城がないので宿衛をおくべき」と発言し、
この言葉に睿宗は従い、すぐにナム・イらが謀反で捕らわれて処刑されました。。
これにより翊戴功臣の号を与えられ、再び領議政になりますが、その年の秋に辞任。
成宗が即位すると、垂簾聴政する貞熹王后が吏曹判書と兵曹判書の兼任を命じるも、
「無能な自分には大任で国事を誤りかねません」と涙ながらに断ったそうです。
こうして兵曹判書のみ兼任となり、成宗2年には佐理功臣の号を得ました。
彗星をまた目撃し、軍営を宮殿の東西に設置するよう願い、みずから西営を率います。
成均館に書籍がないので本を増刷し殿閣を建て保存するよう申し出たときには
国に財源がないと知ると私財を投じて費用を補填し、士林はこれを賞賛しました。
成宗15年の春、高齢を理由に辞職を願いますが、成宗は許可せず杖を贈ります。
ほどなく病床に伏すと、成宗は侍医を送って治療させ、内侍を見舞いに派遣。
さらに危篤に陥ると承旨を送りハン・ミョンフェの遺言を聞こうとしますが、
官服を羽織り「最初は勤勉でも~・・・」という例の訓戒を遺して没しました。
悲しんだ成宗は食事を断ち、直々に祭祀を指示し、全官僚を葬儀に出席させます。
世祖の策士として知られるハン・ミョンフェの諡号は「忠成(チュンソン)」。
(王に使え節義を守ったので「忠」、王の補佐をよく成し遂げたので「成」)
度量が大きく、小さなことにはこだわらず、確固たる持論をもち、決断力があり、
ボという息子が一人おり、娘二人は王室に嫁ぎました(睿宗正妃と成宗正妃)。
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