太祖4年(1395年)も終わりに近い12月28日、宮殿が漢城府に移されるとともに、
北韓(プッカン)山が鎭国伯(チングッペク)に、南山が木覓(モンミョク)大王に。
庶民から士大夫まで、身分を問わず誰もが南山で祭祀を行えなくなりました。
そして太祖5年(1936年)、民が開京(ケギョン)から漢城府に大移動します。
田畑や財産がある官吏は転居を拒みましたが、多くの民は生きる術を求めたとか。
イ・スッポンはバンウォンの斡旋で敦義門(トニムン)の近くに家を与えられ、
高麗王族ワン氏の末裔ソンはソッポ大師に反対されて開京に残ったままでした。
太祖は新しい宮殿にも高麗遺臣イ・セクを呼び、それを聞いたバンウォンがお怒り。
相変わらず太祖を「殿下」と呼ばないイ・セクに重臣たちも無礼を指摘します。
彼ほどの忠臣はいないと評価している太祖は鷹揚に笑うと、こう質問しました。
「もうそなたに出仕は要請しないことにしよう。それで何かワシに頼みはある?」。
この国の山川を見せてくださいという頼みを太祖は快く聞き入れ、酒膳を下賜。
すかさずバンウォンと夫人ミン氏が寧善翁主に命じて毒を仕込ませました。
ってことで、イ・セクは幽玄な湖(川かも)の上に浮かぶ遊覧ボートの上で吐血。
運びこまれた京畿道の神勒(シルルク)寺で、68年の生涯を閉じました。
最期に残した言葉は、「生きるか死ぬかは神が定めるものだ・・・」だそうです。
“市井の輩に過ぎなかった”イ・スッポンが安山郡守(アンサングンス)に任じられ、
ヒャッホーイ!と大喜びでさっそく安山に発ちました。「龍の涙」と違いますねー。
王妃(神徳王后)が病で寝込み、いっこうに回復の兆しをみせません。
婿のイ・ジェが太祖に避接を願い、8月9日に判内侍府事イ・ドクポン宅へ移ります。
世子の座を奪還したいバンウォン夫妻は、兄バングァ夫妻の説得にかかりました。
太祖5年(1396年)8月13日、当時は賢妃(ヒョンビ)と呼ばれていた王妃が崩御。
今こそチョン・ドジョンを倒して兄上を世子に冊封せねば!と息巻くバンウォンは、
ハ・リュンや義父ミン・ジェに「時期を待て」と止められて思いとどまります。
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イ・スッポンはドラマによって字幕が違っていて
スクボン、スクポン、スッポンとややこしいヤツです。
気づいてくださってありがとうございました。
このドラマは全27話のはずです。
だからすごく展開が速くてびっくりしますよね。
第一次王子の乱も思い立ったと思ったらすぐ終わっちゃいました・・・