王妃が逝去して半年後の1月3日、聚賢坊(チヒョンバン)の北の丘で葬儀が行われ、
墓を貞陵(チョンヌン)と定め、神徳王后という尊号が贈られました。
太祖が倒れた・・・と思ったらいつの間にかいきなり2年が経過しています。
病床の太祖に世子のことを頼まれたバンウォンがムカつき、世子バンソクがヒエーッ。
内命婦の規律を正してください!義姉上が入宮しないなら私が入宮します!と
バンウォン夫人ミン氏は気が乗らなさそうな義姉キム氏をそそのかし続けてます。
そんな折、バンウォン側近のハ・リュンが忠清道(全羅道かも?)に任じられます。
チョン・ドジョン、ナム・ウン、シム・ヒョセンはバンウォンに警戒を強めており、
撫安君(三男)と一緒に国境警備にトバしちゃえ!という作戦も練っていました。
邪魔者を左遷してその間に太祖が回復して世子も成長すれば万々歳なのです。
ちなみに高麗王族末裔ソンの息子セウンは3歳のはずですが超デカく育っています。
安山のイ・スッポンに兵を用意させていたバンウォンは、いよいよ決起を決意。
誰が好きこのんで人を殺めますか?私が国の将来ためにするんです!と
義父ミン・ジェ(「龍の涙」に比べるとかなりバンウォンを支援中)に語ります。
父の回復を願って昭格殿でお祈りばかりしているイイ人な永安君(後の定宗)に、
知らないふりをしておいてください・・・と夫人キム氏がアドバイスしました。
説明が出ないので定かではありませんが、ミン氏の弟(ミン兄弟)も登場します。
こうして太祖7年(1398年)8月26日、第一次王子の乱が勃発しました。
世子擁護派ナム・ウンの家に火を放ち、チョン・ドジョンとシム・ヒョセンを謀殺。
病床の太祖に永安君を世子に認めさせると、廃世子バンソクと太祖婿イ・ジェも始末。
その後、ハ・リュンは朝廷に戻って政堂文学に昇進し、シム・ドップは領三司事に、
イ・ジランは門下侍郎賛成事に、義父のミン・ジェは三司右僕射に就くなど、
バンウォンの側近が要職を独占し、バンウォンは朝廷一の権力者になりました。
加えて、実線部隊で手柄を立てたイ・スッポンは王命を管理する右副承旨に昇進。
マ・チョンボクは大護軍、モク・イネは護軍になり、これは異例の人事だったとか。
そして第一次王子の乱から10日後、心を痛めた太祖が世子への譲位を宣言しました。
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