妓生だったチルチョムソンは、高麗ウ王の側室・寧善(ヨンソン)翁主となり、
バンウォンの庇護を受けて宮殿に残った後、王妃(元敬王后)に追い出されました。
尽力してくれた寧善翁主を側室にするつもりだった太宗(バンウォン)は王妃と喧嘩。
3月19日の『朝鮮王朝実録』には(このときのことかどうかはわかりませんが)、
太宗が王妃の嫉妬で経筵(キョンヨン)庁で10日過ごしたと書かれているそうです。
イ・スッポンとチョン・フン(パウ)を呼び、殿下に会わせて!と頼む寧善翁主。
ところが寧善翁主の家は王妃に見張られており、二人は王妃に叱り付けられました。
出世したイ・スッポンの屋敷には、官職をねだる人々が賄賂を手にぞくぞくと訪問。
夫人チョン氏が超エラそうに応対して賄賂を追加させ、使用人たちを怒鳴り飛ばし、
屋敷の前をうるさい馬車が通らないようにしましょ!と夫婦そろって好き放題です。
(いまだイ・スッポン宅で働かされているソンの乳母いわく「似たもの夫婦」)
これにムカついた民が申聞鼓でチクるも、太宗はワッハッハと笑って見過ごしました。
太宗の即位に同意できない太上王・太祖が、故郷である東北面に旅立ちました。
将軍時代から苦楽を共にしてきたシム・ドップ(青城伯)が別れを惜しみます。
シム・ドップは太祖の次女・慶善翁主の義父で、孫は世宗妃(昭憲王后)。
東北面へ帰郷する太祖を見送ったその数日後にこの世を去ったそうです。
父を呼び戻したい太宗が使いを派遣するも、太祖に矢を射られて戻ってきません。
これが、ことわざ「咸興差使(ハムンチャサ)」を生んだ有名なエピソードです。
そんな中、みずから咸興差使に志願したのが、太祖の旧友であるパク・スン。
護衛をつけず、馬の親子を連れて太祖に会いに行き、親子愛をアピールしました。
数日滞在を許されると、碁(将棋?)をさしながら親子鼠の仲をしつこく話します。
こうしてやっと帰京を承諾した太祖に、安辺府使チョ・サイ(神徳王后親戚)が抗議。
パク・スンが龍興江を渡っていなければ殺めてもよいと太祖が許しを出しました。
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