朝廷が進める排仏政策にソッポ大師(いちおう高僧だと判明)が怒っています。
このころすでにムハク大師(太祖が頼った僧侶)は国師となっていたようです。
太祖3年(1394年)6月23日、全国の道と郡が整備され、地名や行政区域を改正。
10月10日には官職の「侍中」が「政丞」に改められました(ex.左侍中→左政丞)。
10月25日には開京(ケギョン)から漢陽(ハニャン)への遷都がおこなわれます。
バンウォン夫人ミン氏が長男を出産。義父の太祖が「ジェ」と名づけてくれました。
明から帰国したバンウォンは不在中に生まれた息子をうれしそうに抱きあげると、
明では今ごろ堂々とした私の姿に恐れをなしてるだろうな♪と自信マンマン。
皇帝から「世子にふさわしい」と言われました!と太祖夫妻に報告しました。
王妃(神徳王后)がムカつき、ナム・ウンは明に行かせたことを後悔します。
何か私にお役目を!と願われた太祖は、『高麗史』の確認と修正を命じました。
言動を慎まないと!え?殿下に言ったの?と義父ミン・ジェがヤバがってます。
イ・スッポン夫人チョン氏と高麗王族末裔ソンの出産日時を同じように占った件で、
奇怪なこともあるもんだ~・・・と話し合うソッポ大師とハ・リュン。
幸運にあやかれるのは片方のみで、もう一方は放蕩する運命になるそうです。
ある日、イ・スッポンを訪ねたバンウォンが、物置にズラリと並ぶ武具を発見。
ほかならぬ夫人ミン氏の命令だと知ると、帰宅してミン氏を問い詰めました。
「世子になれなかったとき、酒びたりの旦那様を見ていられませんでした・・・。
旦那様が戦わないのなら私がスッポンを率いて戦います!」と言われて反省。
すまない・・・でもなぜ頼りないスッポンと企てたのだ?とつぶやきました。
(「龍の涙」とは違ってイ・スッポンったら「まだまだ」扱いなのですねー)
バンウォンはエコ思想なのか「武具を無駄にはできない」と野心を固めちゃいます。
イ・スッポン夫妻に同じ占い結果が出ていると知り、先方の動向を気にするソン。
やがて産気づき、コクセは立ち会い出産しようとして乳母に追い出されました。
チョン氏はやや難産気味で、丑の刻に生め!早く生め!とそばで姑に急かされます。
こうして二組の夫婦に、5月23日丑の刻生まれの息子が誕生しました。
楸洞では・・・バンウォンが寧善(ヨンソン)翁主と二人きりでお酒を飲みながら、
久しぶりだな♪といやらしそうに笑ってます。そういう関係だったのでしょうか!?
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