南漢山城に避難してから45日後の1月31日、臣下と同じ青い官服を着た仁祖が
清の皇帝ホンタイジに会うために三田渡(サムジョンド)へ向かいました。
階段をのぼり、三拝九叩頭(サンベグゴドゥ)の礼をしてホンタイジと謁見。
頭を下げたからこれだけの被害で済んだんだぞ♪とゴキゲンなホンタイジが
「滅亡する明と大義名分を論じるな!オレらには毎年貢ぎものを送れよ!
世子夫妻と鳳林大君は瀋陽へ連れて行くからな!」と有無を言わさず命じます。
和親に反対していたホン・イクハン、オ・ダルチェ、ユン・ジプの引渡しも要求。
3人は最期まで清を認めず処分されましたが、ホンタイジはその気概を評価。
彼らを丁寧に弔わせ、碑石に「三韓山斗(サマンサンド)」と彫らせました。
この3人は、丙子(ピョンジャ)の年の三学士(サマクサ)と呼ばれています。
こうして会談を終えた仁祖は、その日のうちに昌慶宮に戻りました。
誰か一人を責めることでもないし・・・ってことで朝廷の人事改変はほとんどなく
都元帥のキム・ジャジョムと地方高官だけが罷免され配流されました。
2月8日、朝鮮から引き上げるドルゴンが昭顕世子と鳳林大君を連れ帰ります。
仁祖は弘済院まで出向いて、二人の息子とその嫁たちを見送ったそうです。
また、当時の朝鮮の人口530万のうち、60万人もが清に連れて行かれたとか。
さらに清は、今回の勝利を記念する碑石を建てろと命令しました。
碑石を彫った大提学イ・ギョンソク(白軒/ペッコン)は書き終えると断食開始。
左議政チェ・ミョンギル(遅川)が見舞い、実利を求めよう・・・と説得します。
そしてイム・ギョンオプ将軍とトッポ僧侶も降伏への憤りがおさまりません。
明と力を合わせて清を討てばいいんだ!と二人で盛り上がっていると、
「おろかな行動は慎んでくれ」と諌める手紙がチェ・ミョンギルから届きました。
まるで見ていたかのようなタイミングで届きましたよ!すごいですね!
さて、明から今回のことを追及され、弱り果てた仁祖がチェ・ミョンギルに相談。
理想や名分ではなく実利を求めると覚悟しているチェ・ミョンギルが答えます。
「明との関係を守るために苦労した経緯を国書ではなく外交文書で伝えましょう。
朝廷で論議しても分裂するだけ。清の手前、私の独断ということにしましょう」。
ってことで、トッポ僧侶に明の陳洪範宛ての文書を預けることを思いつきます。
前に清がカドを攻めるときトッポ僧侶がイム将軍の命令で陳将軍と洪承疇将軍に
意思を伝えたことがあったからです(そんなシーンあったっけ?思い出せません)
まだ明の目を気にするとは許せん!五千人を出させて明を討つ先鋒に立たせよう!
明と内通してるイム将軍とイ・ワンに指揮させよう!とホンタイジが怒ってます。
スポンサード リンク