光海君が下した密旨を秘したまま、カン・ホンリプが帰らぬ人となりました。
波乱の時代に生まれ、国を救いながらも己の潔白を主張しなかったカン・ホンリプ。
大勢から慕われていたものの、臨終にあたり功績を称える人はいなかったとか。
思悼世子と並んで李氏朝鮮の悲劇の二大世子である昭顕世子は、このとき16歳。
娘ソアを揀擇に参加させてもまた反対されるのではとためらうユン・ウィリプを、
殿下が何のために慶尚監司にしたと?とチェ・ミョンギル(遅川)が説得します。
揀擇で選ばれた15人の娘の中にユン・ウィリプの娘がいなかったと世子が抗議。
参加の書状は届いたのに娘が来なかったと聞いてもまだこだわり(不自然すぎ)
いい加減になさい!と王大妃(仁穆王后)と王妃(仁烈王后)が叱りました。
こうして仁祖5年12月27日、世子は同副承旨カン・ソッキの娘と結婚します。
「後金との戦は避けられないはず。勝てないなら和親を結ぶしかない・・・」。
そう主張するチェ・ミョンギル(遅川)と対立していたキム・サンホン(清陰)。
実はこの二人は深い友情で結ばれており、ある日、内密に絶縁を約束します。
遅川は国を売ったという汚名を受け、清陰は国のために命を捨てると決めたのです。
仁祖6年1月3日、後金のヨンゴルテとマブデが漢陽に来て、勝手に宮殿にズカズカ。
接伴使と一緒に来て国書を届けるのが筋ってもんでしょ?と朝鮮側が抗議すると、
じゃあ国書を拒んだとホンタイジ様に報告するけどいい?と言われてタジタジ。
ボクたちオランケだから無礼なのも当然でしょ?と開き直られちゃいました。
しかも、すったもんだの末に受け取った国書の内容に仁祖も朝廷も憤ります。
「後金が捕らえている朝鮮の民五千人のための大量の食料や衣類をすぐに送れ。
それができないなら贖還しろ(=金払え)」という要求が書かれていたからです。
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