部屋から逃げた妻ユン・ボベを追ってヤンが恩彦君の屋敷の周りを探しています。
どう見てもすぐそこの小屋に潜んでいると思うのですが、なぜか会えません。
「二人は元通りにはなれない、血を流すだろう」とポンニョン僧侶が話します。
反・天主学派のシム・ファンジが左議政に、イ・シスが右議政に昇進しましたが、
世子(後の純祖)の婚姻が控えているため、大っぴらな締め付けはできません。
そんな折、ムン・ヨンインがチュ・ムンモ神父に北京への帰国をすすめました。
正祖の具合が悪く(骨髄炎で全身に膿)、崩御されたら弾圧されるからです。
そんな折、宮殿を出た宮女ムン・ヨンインがチュ・ムンモ神父に会いに行きまし
正祖24年4月9日、集福軒(チッポコン)で大妃(貞純王后)が世子嬪候補を選考。
最終に残ったのは、キム・ジョスンの娘、パク・ジョンマンの娘、シン・ジプの娘で、
中でも大妃が正祖に大プッシュしているのはキム・ジョスンの娘でした。
「私は慶州(キョンジュ)キム氏出身で、王妃は清風(チョンプン)キム氏出身。
キム・ジョスンは安東(アンドン)キム氏だから家門もかぶらないわよ~」と力説。
彼は派閥に属してないから大丈夫だろう・・・と正祖も快く認めてくれます。
これが、安東キム氏がこの後60年にわたって絶大な権力を握る瞬間でした。
このときキム・ジョスンは世子侍講院の兼輔徳と行護軍の役職におり、
官位は低いながらも人柄とすぐれた学問で正祖の側近についていたそうです。
老論(ノロン)の中の時派(シパ)と僻派(ピョッパ)からも認められている存在で、
老論の長であるキム・チャンチプの子孫という名門の家柄出身でした。
天主教一味の名簿にボベの名を書け!というヤンの命令をカン武将が拒んでいると、
入宮命令が届き、迎春軒(ヨンチュンホン)に移されていた正祖があっさり崩御。
文民政治を築き、実学を重んじ、文芸復興の扉を開いたと評価されている正祖は、
儒学を奨励すれば邪学は消えると考えていたため、迫害はしませんでした。
正祖24年(1800年)6月28日、世子嬪選びの最中での、49歳の死でした。
11歳の純祖が即位すると、大王大妃となった貞純王后@56歳が垂簾政治を始めます。
早速シム・ファンジを領議政に、イ・シスを左議政に、ソ・ヨンボを右議政に据え、
イ・ソグを刑曹判書に、キム・ジョスンを左副承旨に任じると、天主教弾劾を命令。
兄を追放したにっくき故ホン・グギョンを官爵から抹消し、兄を吏曹判書に追尊し、
いとこのキム・グァンジュのことは同副承旨にしちゃいました。やり放題ですね!
天主教の信者たちは、神父を守るために一旦解散を決定。ユン・ボベが帰宅します。
スポンサード リンク