
※この系図の後の時代の系譜を知りたい方は
「王と妃」の相関図2をご覧ください。
★温寧君(オンニョングン)/太宗の庶子、文宗の叔父太宗と側室信嬪辛氏の息子で、世宗の異母兄弟。このドラマでは、宗親(王族)の長老であり、首陽(スヤン)大君(後の世祖)を支えて王位に導く一人として登場する。「王と妃」や「ハンミョンフェ」など他のドラマではこの役割を譲寧大君(太宗の嫡子で長男、世宗の同腹の長兄)が担っており、史実でもそれに近かったと思われる。ただし実際に譲寧大君が誰か(ex.キム・スンユ)に斬られたわけではない。フィクション性の高い「王女の男」において譲寧大君にかわる象徴的な存在である温寧君だが、後世のドラマにいきなり引っ張り出されたうえに悪役丸出しでおまけにスンユに斬られてしまって少し気の毒かも。
★文宗/李氏朝鮮王朝第5代国王聖君の誉れ高い世宗の長男。世子時代から長らく父のサポートを務めた後、王座にあがる。それなりに善政を敷いたらしいが、在位後2年で幼い世子(端宗)を残して逝去する。若かりし頃は二人も世子嬪を追い出したという経歴の持ち主(「大王世宗」でエピソードあり)。
★顕徳王后クォン氏/文宗の妃、敬恵公主と端宗の母世子時代の文宗の側室として入宮。実は文宗は別の側室(「王と妃」に登場した淑嬪ホン氏)を三人目の世子嬪にと考えていたが、敬恵公主を産んだクォン氏が世子嬪の座をゲット。しかし端宗を産んだ直後に逝去し、文宗の即位後に追尊されて王后となったため、実際に国母になったことはなく、「王女の男」にも登場しない。『王妃たちの朝鮮王朝』によると、世祖にとっては端宗がちゃんと嫁いできた王妃の子供じゃないということも不満(というか攻撃の大義名分?)だったらしい。世祖一家を次々と不幸が見舞ったのはこの顕徳王后の呪いというエピソードが他のドラマで頻出する。
★端宗/李氏朝鮮王朝第6代国王幼名(本名)はホンウィ。父の文宗が38歳で崩御し、11歳で即位した。癸酉靖難(ケユジョンナン)というクーデターで重臣キム・ジョンソを粛清して全権力を掌握した叔父の首陽大君に追い詰められ、やむなく譲位して上王(サンワン)に退くも、魯山君(ノサングン)に降格され、やがては配流地の寧越(ヨンウォル)で無念の死を遂げる。実際には定順王后ソン氏や複数の側室を迎えているが、「王女の男」には一切出てこない。
★定順王后ソン氏/端宗の妃このドラマには登場しないが、端宗が即位後に迎えた王妃。死六臣による端宗復位事件が発覚して端宗が寧越(ヨンウォル)に送られるときに降格されて別離した。父ソン・ヒョンスは反逆を企てたとして処分される。余生を浄業院で送り、なんと中宗時代まで生きた。
浄業院の松の木がみな寧越を向いていたという言い伝えあり。子供がいなかったため、定順王后の祭祀はチョン・ジョン(敬恵公主の夫)の子孫がおこなったという。
★敬恵公主/文宗の娘、端宗の姉こちらの記事(別ブログ)でまとめています。
★寧陽尉チョン・ジョン(鄭悰)/敬惠公主の夫駙馬(プマ=王の婿)で寧陽尉(ヨンヤンウィ)に封ぜられたという以上の詳しい情報は歴史本には出てこない。家門は海州(ヘジュ)チョン氏で、父は刑曹参判を務めたチョン・チュンギョン(鄭忠敬)。叔母は孝寧(ヒョリョン)大君(太宗二男)の妻、姉は永膺(ヨンウ)大君(世宗八男)の妻と、何気にロイヤルファミリーつながり多し?(永膺大君との結婚は、端宗を支えてくれるかも?という世宗の思惑があったとかなかったとか・・・)チョン・ジョンは当然ながら義弟にあたる端宗支持派であり、首陽大君の粛清の対象となった。世祖7年(1461年)没。「王女の男」では、病気の母のためにお金を工面して取り立てから逃げ回る没落両班で、キム・スンユとシン・ミョンとは親友という設定。
★安平大君&錦城大君/世宗の嫡子、文宗と世祖の弟幼い端宗を首陽大君とともに支える王族の中心人物だったのが錦城大君だが、権力への欲は少なかったようで、首陽大君の勢力が大きくなるばかりだったため、重臣勢力が対抗馬として安平大君を担ぎ出した。しかし安平大君は癸酉靖難で賜薬を下され、後に端宗復位を企てた錦城大君も処分される。安平大君はすぐれた書家としても有名。