領議政を二度も務めた完平(ワンピョン)府院君イ・ウォンイク(ウォニク)は、
ファン・ヒ、メン・サソン、サン・ジンらと共に四大宰相と呼ばれる優秀な人材。
質素に暮らしていた晩年に、廃母論のことを知り、命がけで上奏文を出しました。
無礼千万!と怒った光海君はイ・ウォンイクの官位を剥奪し江原道へ送ります。
大妃を慶運宮に残して引越しましょう!と話し合うキム・ゲシ尚宮とユ・ヒブン。
世間体が気にならないの!?と王妃ユ氏が反対するも取り合ってくれません。
この治世は長くないと話すチェ・ミョンギル(遅川)とイ・ギ(黙斎/ムクチェ)。
チェ・ミョンギルは、自分を救おうとカン・ホンリプが動いたことを知りました。
そのカン・ホンリプをキム尚宮が訪ね、「あなたの忠心を王様がほめてますよ」。
政治に関わらずお帰りくださいとカン・ホンリプに言われてムカついてます。
光海君7年(1615年)4月2日、光海君が昌徳宮に移御(いぎょ)しました。
ただし大妃(仁穆王后)は慶運宮(徳寿宮)に残されたまま幽閉生活に突入。
「西宮(ソグン)幽閉」の始まりで、大妃は西宮ママと呼ばれたそうです。
慶寿宮では夜になるとお化け退治と称して嫌がらせの射的がなされるのでした。
カン・ホンリプが反対文を書くと、「一門が滅びる!」と叔父に破られました。
一方、座り込んで抗議した24歳のチョ・ジクは、南海(ナメ)に流されます。
この頃「塞門(セムン)洞に王気が漂っている」という噂があったそうで・・・
その王気の張本人とされたのは定遠君の三男・綾昌(ヌンチャン)君でした。
ソ・ミョングクやヤン・シウの自白によりシン・ギョクヒが濡れ衣をきせられ、
(詳細がわからなかったのですが、シン・ギョクヒは定遠君夫人ク氏のいとこ。
シン・ギョクヒはイ・イチョムの手先だったので必死に潔白を訴えていました。)
シン・ギョンヒ、ソ・ミョングク、ヤン・ギル、ヤン・シウらが大罪人に。
綾昌君が連行されると、定遠君は先王直筆の立て屏風(デカイ)と金品を用意。
息子の救命をユ・ヒブンに頼みに行きますが、願いは聞いてもらえませんでした。
「どうにかしたいなら、この件を牛耳っているイ・イチョムに頼んでください」。
イ・ウォンイクの配流に続き、9月1日には、綾昌君が江華島へ送られました。
その話を聞き、80歳のチョン・インホン(イノン)が故郷の陜川から都へ来ます。
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