正祖(イ・サン)が洗草(セチョ)の命令を下したのは、
1776年(英祖2年)、摂政を始めてから2ヶ月後のことでした。
英祖は洗草を願う正祖の上訴を史庫に保管させ、
洗草が正祖の意思で行われたことが後の世にわかるようにしたそうです。
「承政院(スンジョンウォン)日記」とは王室のできごとを承政院が記した業務日誌。
王と臣下のやりとりはもちろん、王がどこで勉強しどこで休んだかということや
王の気分や健康状態、さらには天気まで事細かに記録されており、
残念ながら政変や火災などで多くが消滅してしまったものの、
290年間にわたる全3243冊・39万ページにも及ぶ膨大な記録が現存するとか。
その記録量の多さは単一史料としては世界最大級。
2001年にはユネスコ指定世界記録遺産に登録されました。
この「承政院日記」やその他の資料から抽出・編纂されたのが「朝鮮王朝実録」。
こちらも朝鮮王朝25代472年間のできごとが詳細に記された貴重なもので
すでに1997年にユネスコ指定世界記録遺産に登録されています。
正祖が削除を命じたのは「承政院日記」の中の、
父・思悼世子(サドセジャ)が死んだ1762年の一年分の記録。
洗草とはもともと「朝鮮王朝実録」を作成する際に
完成本を除く記録を水で洗って記録する作業のこと。
水で洗うと墨が流れ去り、残った繊維質は新しい韓紙にリサイクルしました。
このように歴史本をつくる過程での単なる一作業に過ぎなかった洗草が
「歴史を消す」という意図で行われたのはこれ一度だけだったとか。
思悼世子に関するむごい描写はこの世から消えうせたものの、
彼の死にまつわる記録が恵慶宮洪氏(恵嬪=正祖母)による「「閑中録」だけになり、
客観性のある記録がないという状態になってしまったそうです。
記録ということに関していえば、正祖は老論派の訴えを認め、
少論派の立場で辛壬獄事が書かれた「景宗実録」の書き直しも許したそうですよ。
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