「首陽(スヤン)大君の明行きは君主の命令でやめさせればいいじゃないか?
なぜ泣く?だから臆病者と噂されキム・ジョンソにも軽んじられるのだ!」と
甥とはいえ王である端宗にハッキリ言い過ぎの譲寧(ヤンニョン)大君(世宗兄)。
そこへ恵嬪ヤン氏(世宗側室)が入ってきて譲寧大君をつまみ出させました。
実をいえば譲位をすすめるために宮殿に行ったのだ!12歳の王に何ができる?と
帰宅した譲寧大君が永膺(ヨンウ)大君(世宗八男)に堂々と吐露します。
この譲寧大君、世宗時代は宮殿への出入りを禁じられた問題児だったそうで、
今回も出入り禁止にしてほしいと安平大君が重臣たちに働きかけています。
明へ同行する副使として兵曹判書ミン・シンを推薦した首陽大君でしたが、
領議政ファンボ・インや右議政キム・ジョンソの息子も随行させたいと申し入れ、
ミン・シンの後を任せられるのは工曹判書チョン・インジだけと言い出しました。
チョン・インジに兵を任せておけば謀反が起きないだろうとの考えからです。
そして首陽大君の予想どおり、ミン・シンが仮病で副使就任を拒否すると、
深夜にキム・ジョンソ宅を訪ね、吏曹判書イ・サチョルを副使に推薦。
ファンボ・インを辞任させてキム・ジョンソが領議政になってくれと頼みます。
キム・ジョンソはそれを断りますが、息子スンギュを明に同行させると答えました。
最後に首陽大君は不在中の家族の命を握るキム・ジョンソに拝礼して去ります。
ここで、世宗の忠臣だったキム・ジョンソは顧命(コミョン)を残されたものの、
次の王・文宗はそれを認めなかったというエピソードが紹介されます。
家のことはクォン・ラムに、公的なことはハン・ミョンフェに相談しなさい、
嫁のハン氏をしっかり監督しなさい(爆)・・・と夫人ユン氏に命じる首陽大君。
また、集賢殿シン・スクチュに謝恩使の書状官を依頼し、快諾を得ました。
その年の人事異動では首陽大君の希望が通り、兵曹判書ミン・シンが吏曹判書に、
吏曹判書イ・サチョルが工曹判書に、工曹判書チョン・インジが兵曹判書になります。
遠い燕京(北京)に向かう叔父を見送りたいという端宗の希望は残念ながら通らず、
1452年10月、都承旨カン・メギョンに見送られた首陽大君が明へと旅立ちました。
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