ハン・ファクのお葬式?と思ったら、左議政イ・サチョルも亡くなっていました。
イの字は誠之(ソンジ)で、集賢殿博士、都承旨、吏曹判書、議政府左賛成を歴任。
顧命謝恩使として明に赴いた首陽大君(世祖)に随行し左議政に昇りつめ、
世祖2年(1456年)12月に52歳で生涯を閉じたそうです。
老齢を理由に辞職を願う領議政チョン・インジが世祖に慰留されてあっさり撤回。
早くやることやれよな!と都承旨ハン・ミョンフェや譲寧大君につつきまくられた
チョン・インジは集賢殿仲間で兵曹判書のシン・スクチュに相談しました。
シン・スクチュに確認されると、“苦いものを甘いと笑う”世祖は上王弾劾を否定。
チョン・インジはその言葉を信じますが、直後に世祖が大胆な人事を発表します。
礼曹判書ホン・ユンソン、刑曹参判ファン・ヒョウォン、同副承旨キム・ジル、
工曹判書ヤン・ジョン、右議政チョン・チャンソン、左賛成カン・メンギョン、
右賛成シン・スクチュ、吏曹参判パク・ウォニョン・・・と功臣らがスペシャル昇進。
王妃への贈り物としてキム・スオン(信眉大師弟)も僉知中枢院事に任じました。
おっといけない♪ホン・ユンソンがお前より上の位階になってしまうな♪
でもお前は常に私のそばにいる都承旨が適任だな♪とハン・ミョンフェに笑います。
大幅昇進を喜ぶ功臣仲間と杯を交わしながらハン・ミョンフェが釘を刺します。
「お前ら、殿下が出世させてくれた意味をよーーーく考えろよ」と・・・。
自分の役目を心得ているチョン・チャンソンは、チョン・インジを説得しました。
今回は世子と世子妃ハン氏が寝床で仲良さそうに会話する場面が出てきました。
湯薬を飲んでにこにこする世子を世子妃が見守る昼間のシーンもありましたよ。
そんな世子妃は実家の兄を差し置いて従兄弟のハン・チヒョンを呼び、
今回の嵐が終わったら「私の右腕の」都承旨ハン・ミョンフェを訪ねろと言います。
友人を裏切って告発したキム・ジルを世祖@泥酔がひとしきり苛めた後、
次は千鳥足で「友人」シン・スクチュ宅へ行き、複雑な胸の内をぶちまけました。
翌日、上王・端宗の住む昌徳宮を囲んでいた兵がいきなり撤収します。
幽閉が解かれたのだ!と喜ぶ端宗でしたが、義父ソン・ヒョンスは浮かぬ顔。
大臣と王族が上王の廃位を訴え出ており、官僚たちの連座も始まったからです。
端宗を心配する王妃(貞熹王后)と淑嬪ホン氏は昌徳宮を訪ねるのでした。
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さらに上位の礼曹判書(正二品相当)に転任し、
韓明澮(ハン・ミョンフェ)の承政院都承旨(正三品堂上)よりはるかに上位となってしまった。
でも、洪允成はこれから10年間、正二品相当の官職が長く続き、
結局は、韓明澮の方が早く領議政になってしまう。
因みに、この複数の一連の人事異動は、1457年1月18日付けのこと。
日本では、室町幕府八代将軍足利義政の時代。
管領は細川勝元。応仁の乱がはじまる10年前のことです。
武蔵国の江戸では太田道灌が江戸城をこの年、築城します。