夢の中で会った端宗を助けようと必死に叫びながらもがく上王・世祖。
チョン・ギュン内官が飛んできて介抱するうち、粋嬪に会いたい~と言い出しました。
宮殿からの呼び出しを受けた粋嬪ハン氏はうれし涙を流します。
いよいよ危篤?と聞いたユ・ジャグァンは、功臣を軟禁しろと主張。
兵曹判書ナム・イも功臣を捕らえる気マンマンの戦闘服姿で登場しますが、
謀反を起こしたわけでもないのに・・・と領議政イ・ジュン(亀城君)は及び腰です。
「粋嬪はまだか?私は待ちたいが甥は待ってくれぬのだ・・・」。
おいでおいで~と水の中に入った端宗と定順王后に呼び寄せられている世祖は、
私は悪鬼だった・・・生まれ変われるなら木に生まれるように祈ってくれ!と
大妃(貞熹王后)に叫ぶと崩御しました。(死ぬときまでパワフルでしたね)
急いでやってきた粋嬪ハン氏は、大殿から漏れる泣き声で義父の死を知ります。
呆然としつつも「借りを返してください」としつこく思う粋嬪ハン氏がさすがです。
李氏朝鮮王朝第7代国王・世祖は歴史書では“王位さん奪者”と書かれていますが
首陽大君が世宗の息子たちの中で一番優秀だったのは事実だそうです。
争いを防ぐため世宗が嫡男継承の原則を立てるも、息子の文宗は早世しました。
端宗の治世は勢力争いが尽きず、王権を守るという名分で世祖が癸酉靖難を起こし、
幼い端宗の側近となって権力をふるい、この頃から王権に野心を抱き始めます。
譲位により王になった世祖は、六曹直啓制を取り入れて地方の統治体制も改革。
軍力を増強し北方を平定させ、号牌制度を設けて軍役と労役を平等に課し、
科田法を廃して現職の官吏にのみ土地を与える職田法を採用しました
農業生産を高めて民の生活を安定させる多数の施策も行ったそうです。
雑多な条例などをまとめて統治の根幹となる法典『経国大典』を編纂したほか、
世祖4年から編纂を始めた『東国通鑑』では古代から高麗末までの歴史をまとめ
中国と朝鮮が対等であり悠久の歴史があると示して民族の誇りを持たせたとか。
甥や忠臣を処分した世祖は儒教を信奉できなかったため、仏教が興隆しました。
王としての世祖は指折りの名君でしたが、数多くの治績でも背徳は帳消しにできず、
1468年9月8日、大殿で苦悩に満ちた死を迎えます。在位14年、享年52歳でした。
功臣の動きを牽制せねばとユ・ジャグァンに助言された亀城君は崩御を隠します。
なぜ隠すのか?不忠すぎる!と大妃も孝寧大君も臨瀛大君(亀城君父)も超お怒り。
礼曹判書イム・ウォンジュンに崩御をしらされた功臣軍団も憤慨しています。
看取れないまま追い払われた!今日のことは忘れない!と粋嬪ハン氏も悔し涙。
亀城君は粋嬪ハン氏を力尽くで追い出させてニタニタと笑って見ていたからです。
スポンサード リンク
世祖、ついに亡くなりましたね。臨終でも力強くて…でも弱気になる姿が痛々しい半面、ハン氏のタフさがまたすごいです。欲が深いといろいろ頑張れるものですね。
定順王后ってこのときまだ存命じゃなかったでしたっけ…脚色か私の記憶違いか…
時代が下がりますが、最近また中国Wikipediaで後宮についてみていたら、ヒ賓は史実では嫡出なんですね(既出でしたらスミマセン)。身分があまり高くない昌賓とは出世スピードが全く違い(さすが功臣嫡出の娘)、ちょっと見直しました。
それから、ヨンサングンにやられてしまう成宗側室の貴人厳氏、名前が「厳銀召史」となっていて驚きました。「銀召史」って、変わった名前…。お姉さんは「金召史」だそうです。びっくりです。