ハン・ミョンフェいわく「判書と同格の判内侍府事を殴るのは問題」だそうで、
ヤン・ジョンの腕力ではオム・ジャチの腹黒さを抑えられないとも話します。
けれどもミョンフェにはオム・ジャチを追放するよい腹案があるようです。
ボコボコにされたオム・ジャチ内官は恵嬪ヤン氏の暮らす浄業院を訪問。
一時でも首陽(スヤン)の手先になったのは間違いだった・・・と悔やむのでした。
端宗の婚礼を強引に推し進めると決めた首陽大君は、夫人ユン氏に嫁探しを依頼。
集賢殿の学者に相談しろ&首陽大君を遠ざけろとオム・ジャチが端宗に助言します。
国喪中だから婚礼しない!と端宗がキッパリ断っても首陽大君は聞きません。
こうして端宗2年(1454年)1月22日、端宗の許可が下りないままで
譲寧大君・孝寧大君・淑嬪ホン氏らによって揀擇が強行された結果、
豊儲倉副使(プンジョチャンブサ)の娘(シムトゥン!)ソン氏が選ばれました。
1月24日には端宗@14歳と王妃ソン氏@15歳の婚礼がおこなわれたそうです。
このとき、婚礼の日だけ礼服を着るVS喪服に戻る必要なしという意見が激突。
首陽大君はここでも自分の意向を貫き後者の意見を通しました。
端宗を赤子のときから育ててきた恵嬪は式に呼ばれず、悔し涙を流しています。
その12日後、首陽大君はシン・スクチュ@38歳を都承旨に任じました。
外交における第一人者の彼は、明・女真族・日本への体系的で正確な知識を持ち
深い学問と文才を備えた当代随一の俊才だったそうです。
加えて右副承旨クォン・ナム、兵曹参判ホン・ダルソン、兵曹参議ヤン・ジョンなど
靖難の中心人物たちが要職に名を連ねる人事異動が敢行されました。
ハン・ミョンフェ(とホン・ユンソン)は出世せず、長女バンウルが悲しそうです。
首陽大君が出世させなかったわけでなくミョンフェが断ったという設定のようですね。
首陽大君の計らいでミョンフェ長女バンウルとスクチュ長男@18歳の縁談が成立。
いつかの予言めいたミョンフェの言葉を思い出すスクチュでした。
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