通常は王が崩御すると残された妃はすぐ拝陵(ペヌン=墓参り)するそうですが、
光海君は何かと理由をつけて大妃(仁穆王后)の拝陵を延期させていました。
今年も大妃に外出許可を願われ、キム尚宮の反対する顔を浮かべていますが、
許してさしあげて・・・と王妃ユ氏にも言われてついに許可を出しました。
密昌府院君パク・スンジョン、文昌府院君ユ・ヒブン、広昌府院君イ・イチョム。
王室に妹や孫を嫁がせているこの三人は、この当時きっての権力者であり、
全員が名前に「昌」を含むので、「三昌(サムチャン)」と呼ばれていました。
なんで許可すんの?王はやさしすぎる!とイ・イチョムとユ・ヒブンは憤ります。
(大妃が父キム・ジェナムや仁嬪や定遠君と会えば謀反を企むかもしれないので)
供え物を用意するオム尚宮に「片付けなさい!」とエラそうにキム尚宮が命令。
大妃があんなに楽しみにしていたのに、外出当日に中止命令が下されたのです。
反対上書もなかったしイ・イチョムかケシの仕業だ!と定遠君が推測します。
明けて光海君5年(1613年)、『癸丑(みずのとうし)日記』が書かれた年・・・。
庶子グループ「江辺七友(カンビョンチルウ)」の活動資金を稼ぐために、
そのメンバーたちは黄海道から慶尚道まであちこちで悪事を働いていました。
ホ・ギュンだけはこれに加わっていないようで、仲間に釘をさしています。
単なる盗みではなく、商人をあっさり斬りつけてますよ。悪い奴らですねー。
そのうち目撃者が現れ、庶子グループは驪州(ヨジュ)の「無倫堂」で御用に。
(このメンバーの中に三田村邦彦「張禧嬪」のヒジェの人がいた気が・・・)
ところが、彼らが奪った金品が見つからず、豪遊もしていないとわかりました。
この件を相談に来た左捕将ハン・ヒギルに、イ・イチョムがこう命じます。
「謀反だ。キム・ジェナムと組んで永昌大君を擁立しようとしたのだ・・・」。
イ・イチョムになんとか救命を頼んで!と残党チイにすがられたホ・ギュン。
庶子は謀反は企てていない・・・とイ・イチョムに頭を下げてお願いすると、
お前を死なせたくない!だから奴らと関わるな・・・と断られてしまい、
イ・イチョムを「蛇蝎」呼ばわりする故クォン・ピルを思い出すのでした。
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