イ・イチョムを批判した成均館ユン・ソンドは、朝鮮王朝中期の最も優れた詩人。
ユン・ユシムの実子ですが叔父にあたるユン・ユギの養子になっていたそうです。
礼曹判書兼大提学イ・イチョムは、ユン・ソンドを三司に弾劾させました。
光海君はユン・ソンドを咸鏡道の慶源に配流させ、父親の官職も剥奪。
彼は後に機張(キジャン)に移送され、7年間の収監生活を送ったそうです。
どお?刑曹判書になってみる?とイ・イチョムがホ・ギュンにもちかけますが、
大妃(仁穆王后)の廃位に備えた人事だと知るホ・ギュンの表情はフクザツです。
そこへ、誰かが投げた石が飛んできて「お前の手下か?」とイ・イチョムがムッ。
翌日、イ・イチョムはその石を手に登庁し、光海君に見せて辞職を願い出ました。
もちろん光海君は引き止めてくれ、「三昌は仲直りするように」と促します。
するとそのとき、イ・イチョムを前回よりもさらに弾劾する上書が届きました。
提出者したのは、亀川君や錦山君や錦渓君ら総勢19人の宗親(王族)たち。
筆頭者の亀川君(中宗と淑儀イ氏の五男・徳陽君の孫)が光海君に呼ばれ、
オレとイチョムを侮辱すんな!と怒られて今度も島流しされちゃいました。
これによりイ・イチョムは絶対的な存在になり、誰も批判できなくなります。
三昌の残りの二人ユ・ヒブンとパク・スンジョンも仲直りしないわけにはいかず、
3月9日に掌苑署で会合を開いて和解し、詩を吟じて、大妃の廃位に合意しました。
義州を見ずに国を治めることはできないとトッポ僧侶がチェ・ミョンギルに助言。
後金の皇帝ヌルハチは朝鮮に使臣を送って朝貢を求める気マンマンで、
オランケなどと呼んでバカにしたらすぐ陥落させてやる!と自信たっぷりです。
大妃の住む慶運宮(現在の徳寿宮)に、大妃の身の上を嘆く矢文が届きました。
「領議政キ・ジャホンと兵曹判書パク・スンジョンが助ける」と書かれており、
パク・スンジョン(世子妃祖父)は信用できない!ワナかも?と大妃は疑います。
この頃ホ・ギュンは有名な『ホン・ギルドン伝』を書き終えていたそうで・・・
その一節を読んだイ・イチョムが「ギルドンはどこにいるのだ?」と聞きました。
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