上奏文を出した弘文館イ・ジョンミン(ジンミョン?)や司憲府イ・グクファは流刑に。
それに異を唱えた都承旨と左承旨も処分されました。
領議政キム・スハンや領中枢府事キム・スフンらが続々の批判の上奏をしますが、
粛宗はものともせず、南人派のチョ・サソクを吏曹判書に任じます。
西人老論派の領袖ソン・シヨルは、ここは自分が動かないほうがいいと判断し、
ミン・ユジュン(王妃父)と左議政ミン・ジョンジュン(王妃叔父)が宮殿へ。
粛宗は義父たちに、チャン・ヒョン(オクチョン叔父)は無実と知っているが
亡き母(明聖王后)がしたことだからもう何も言うなと話します。
それでも中国の桀王やら紂王やらの話を持ち出して批判され、粛宗ムカーッ。
淑媛(スグォン)チャン氏を昭容(ソヨン)に任じる!という辞令をその場で言い渡し、
抗議されると昭儀(ソイ)に昇進させました。(「チャングム」に似たシーンが・・・)
昭儀になったオクチョンは、これまで支えてくれたチョ・サソクらと団結を強め、
挨拶に行った大王大妃(荘烈王后)とは、笑顔ながらも心でバトルしています。
さて、寵愛を集めるオクチョンは就善堂(チソンダン)様と呼ばれており、
チャン氏とはどんな女なのですか?そんなに美しいのですか?と
王妃母が王妃(仁顕王后)に聞いています。オ尚宮の答えはこうでした。
「美しさでは王妃様の足元にも及びませんが殿下の心を察するのが上手なのです」
昼食も就善堂でとる粛宗のために、みずから水刺間(スラッカン)へ赴くオクチョン。
もう昭儀なのですから体面をお考えくださいとチョン尚宮がいさめていますが、
そんな甲斐甲斐しさこそが自分のアピールポイントとオクチョンは知っています。
淑儀(ソギ)キム氏にはあえて仕返しをせずずっと不安にさせておく作戦で、
チョン尚宮はその手腕に感嘆しています。で、それより二人の仕返しの的はオ尚宮。
ちょうど女官どうしの争いが起こり就善堂の女官とチョン尚宮がボコボコにされ、
(すれ違うたびに挨拶するしないで低レベルなケンカをしてたんでしょうか?)
オクチョンはこれ幸いとオ尚宮をビンタ攻め!それをしらじらしく王妃に謝りつつ、
下の者の争いを諌めるのが尚宮の務めのはずでは?と正論で鼻白ませす。
粛宗13年、光城府院君キム・マンギ(前の仁敬王后父)が逝去し、
西人少論派ナム・グマンが領議政に。再入宮後2年が経ち、オクチョンは来年30歳。
40歳に近い老いたイノシシに子孫を望むのは無理だ!と大王大妃は言い捨て、
“暮れる日”の昭儀だけでなく王妃や淑儀も愛してくださいと粛宗に進言します。
それに従い粛宗が就善堂を訪れなかったその夜、オクチョンにつわり!でーす。
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オクチョンの「チソンダン」様、建物で呼ばれてるんですね。王妃が中殿とか、宣祖の仁賓キム氏がヤンファダンと呼ばれていたのと同じなんですね(^_^)v
低レベルな喧嘩‥昼メロテイストがこのドラマの良さとは思いますが、側室女官同士の対立や喧嘩もややレベルが低い印象を受けます。まあ後宮での対決そのものが瑣末なことを大騒ぎすると言えばそうなんですが(笑)
仁顕さまのお好きな「内訓」、あまり聞かない女訓書な気がして調べたら大メジャーな女訓書で無知を反省しました~。明の成祖永楽帝の皇后の「仁孝文皇后内訓」ですね。意外に最近の読んでるなあ~なんて(女訓書は漢の時代からあるし、儒教経典から女性むけ道徳をひいたら紀元前の記述から見てるわけですから)。また余談ですが、「後宮」を中国時代劇では「側室」の意味では使わないので、中国時代劇をたまに見ると韓国時代劇を見た時混乱してきます。