上王・端宗の復位活動を決意した左副承旨ソン・サムムンが、父ソン・スンに報告。
(ソン・スンは「王と妃」でも同じ役者さんだったような?違ってたらすみません)
そのソン・サムムンやパク・ペンニョンの動向を気にする右承旨ハン・ミョンフェに、
何かを企てるような奴じゃないと集賢殿仲間のシン・スクチュとクォン・ラムが否定。
しかしホン・ユンソンは、イ・ゲやユ・ソンウォンの上王殿訪問を掴んでいました。
集賢殿関連が注目の的だということは端宗のほうも心得ているようで、
自分は望んでここにいるのだからあまりここへ訪ねて来るなと釘をさします。
官職を拒み放浪したがる吏曹参議ユ・スを、王命に逆らうのか?と叱るミョンフェ。
その夜、ミョンフェはユンソンを世祖との飲み会♪に連れて行きました。
朝鮮最高(!)のユンソンの酒量に感嘆した世祖は「傾海堂」という表札を与え、
後日ユンソンは豪華な東屋にその親筆の表札を飾ったそうです。
佐翼功臣になれずミョンフェにも怒られて最近めっきりおとなしいユンソンに、
功臣にしてやろうかな~♪と宴の席で世祖が言い出し三等功臣に認めてくれました。
感激っす!で、オレは何をすればいいんっスか?と帰り道にユンソンが頭を下げます。
世祖1年(1455年)10月24日に芸文館大提学シン・スクチュが奏聞使として、
吏曹参判クォン・ラムが謝恩使として明へ発ち、年が明けて世祖2年(1456年)・・・。
王妃(貞熹王后)と世子妃ハン氏は法度に従い、毎日上王殿に行き挨拶しています。
もう来なくてもいいですと端宗が言い、とんでもありませんと王妃が答えると、
幼い大妃(定順王后)がかなりエラそうな物言いで拒否っています。
シン・スクチュ夫人ユン氏(ミョンフェ娘バンウルの姑)が重病になりました。
スクチュの不在に責任を感じている世祖が御医を派遣するも、その甲斐なく逝去。
ユン氏の葬儀を世祖みずから指示するという破格の待遇だったそうです。
けれどもこれは『松窩(ソンワ)雑記』などでの誤った歴史認識を生み出したとか。
同書では夫の友に対する不忠を恥じ入り夫人が首をつったと書かれていますが、
『世祖実録』によると夫人の他界は1月21日で死六臣の獄死はその5ヵ月後でした。
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