シン・スクチュと長男シン・ジュが明に赴いている間に夫人ユン氏が世を去り、
長男の嫁バンウル(ミョンフェ長女)が葬儀を取り仕切る姿は人々の涙を誘ったとか。
世祖の即位が認められるという吉報が燕京からもたらされたのは、そんな折でした。
世祖は喜び、シン・スクチュを兵曹判書に、クォン・ラムを吏曹判書に任命。
論示の末尾にスクチュ夫人の不幸を記すのを忘れるなとも命じました。
科挙合格後たった5年で判書になった彼らの出世は異例の早さだったそうです。
景福宮に活気が戻った一方、昌徳宮で寂しさにかられる上王(端宗)夫妻は
明の使者をもてなす宴には「幼いので酒宴に出ても仕方ない」ってことで欠席。
宴で明の使臣に聡明さを褒め称えられるシン・スクチュをまたもや悲劇が襲います。
長男シン・ジュが母を亡くしたショックで翌年の初夏に逝去してしまったのです。
(スクチュは後にイ・シエの乱で息子シン・ミョンも失うんですよね・・・)
義母と夫が立て続けに他界したバンウルが涙にくれるのでした。
宴は連日開かれ、夜は功臣たちの屋敷でも催される日々が続いています。
王妃(貞熹王后)と世子夫妻はそんな世祖の毎日を心配してちょっぴり反対。
ハン・ミョンフェのほうも「政治も紀綱も乱れる!」と自重の必要性を説き、
侍読官ヤン・ソンジと一緒に宴の取り止めを世祖に直訴しに行きました。
さて、世祖をいまだ首陽(スヤン)と呼んで罵る学者たちがいました。
左副承旨ソン・サムムン、芸文提学パク・ペンニョン、成均司芸ユ・ソンウォン、
集賢殿副提学イ・ゲら、先王の遺命を受けた集賢殿出身の忠臣たちです。
幼い世孫(端宗)のことを頼む・・・と託す世宗の姿を忘れられない彼らは、
明の使者が滞在している間にコトを起こして明にアピールしようと話し合い、
人格者として知られる老臣ハ・ウィジにも加わってもらうことにしました。
世祖がミョンフェの屋敷に行くと知ったある日、討つのは今夜だ!と結束します。
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