世祖3年(1457年)は癸酉靖難を主導した者たちの慶事から始まりました。
ホン・ユンソンが礼曹判書に(1月18日)、ヤン・ジョンが工曹判書に(3月5日)。
咸吉道都節制使だったヤン・ジョンが2年7ヶ月ぶりに都に戻ってきます。
ホン・ユンソンが自分の昇進とヤン・ジョンの帰還を祝って宴を開催。
彼の酒豪っぷりを称えて世祖が書いてくれた「傾海(キョンヘ)堂」という
表札を掲げた豪華な屋敷に功臣仲間たちをご招待しました。
けれどもヤン・ジョンは浮かぬ顔。上王(端宗)がいまだ都にいるのが不服なのです。
世祖は、上王を遠方に移せという20回以上もの上訴と進言を拒み続けていました。
また復位を企む輩が出てくるから上王が成人する前にケリをつけるべきだ、
問題は名分だ・・・と都承旨ハン・ミョンフェが仲間に考えを明かします。
で、その名分をつくっちゃったのが判敦寧府事ソン・ヒョンス(定順王后父)。
ごろつきどもと月足らずが要職を占めるなんて世も末だ~と朝廷を批判し、
行敦寧府判官クォン・ワン(端宗側室の父)と上王復位をはかって意気投合します。
で、6月21日、ユン・サユンにキム・ジョンスという良民がこの企みを告げて露呈。
ソン・ヒョンスはあっさり白状し、端宗は魯山君(ノサングン)に降格されました。
ミョンフェは流刑先に江原道の寧越(ヨンウォル)の清冷浦(チョンリョンポ)を提案。
そこは三方を川に囲まれ後ろは奇岩絶壁という、絶海の孤島のような場所でした。
世祖は甥を追い出す業に泣きますが、演出がちゃちすぎてちょっと白けます。
22日に事件を知らされた端宗は驚き、あれほど止めたのに・・・と悔やみます。
チョン・ギュン内官が告げる処分を素直に受け入れ、その日のうちに寧越に出発。
夫と引き離されると知った大妃がダダ泣きして抗議します(シムトゥン熱演・・・)。
ところで、端宗追放に反対の王妃(貞熹王后)が前話からしばしば呼びつけている
チョン・インジの息子チョン・ヒョンジョ(河城尉)という人ですが(たぶん世祖娘の夫)、
中宗の第一王妃シン氏が宮殿を出た後に一旦滞在したおうちの人でしょうかね?