領議政ハン・ミョンフェ(上党君)とシン・スクチュ(高麗君)が呼ばれ、
病がぶり返したので二人に政務を任せたい・・・と世祖に頼まれました。
しかしミョンフェはユ・ジャグァンの「領議政やめろ」発言が気になっており、
よどんだ水は濁るだの欲にまみれていないことを示すだのと言い出してます。
領議政就任からわずか6ヶ月で辞任を願い出たハン・ミョンフェに世祖がお怒り。
後任は領議政ファン・スシン、左議政シム・フェ、左議政チェ・ハンに決定です。
民心が乱れているなら引退も得策だと粋嬪ハン氏はミョンフェの辞職を評価し、
長年の功臣ですから・・・と王妃(貞熹王后)も必死にかばっています。
世祖の判断力が鈍り猜疑心が強くなったこの頃、「イ・シエの乱」が発生します。
世祖13年(1467年)5月16日、咸吉道のイ・シエが書状を提出しました。
「私奴婢のコ・ウプドンを吉州で捕まえたのに、カン・ヒョムンが放免しました。
カン・ヒョムンの部下ヒョン・ドゥクリは兵を率いて上京しようとしましたが、
これはハン・ミョンフェやシン・スクチュと書簡で示し合わせていたからです。
カン・ヒョムンが反逆を企てていると確信しましたので彼を始末し、
イ・シハプにはカン・ヒョムンの配下の将を始末させました」という内容でした。
告発した本人のイ・シエのほうが怪しいです!と重臣ク・チグァンらが主張し、
観察使シン・ミョン(スクチュ息子)からもイ・シエと食い違う報告が到着。
世祖は亀城君@29歳やナム・イ@27歳を討伐軍として派遣しました。
これは、北方が冷遇されていたことに対する不満から起こった事件だそうです。
丹腫で寝込んでいたハン・ミョンフェは、自分が告発されたことにびっくり。
功臣の彼らが謀反を企てるはずがありません!と粋嬪が王妃に無実を訴えるも、
疑い深い世祖のことをどうにもできないと王妃は弱りきるばかりでした。
こうなったのも彼らが軽率だったからだ!と世祖は功臣二人の落ち度を責め、
シン・スクチュとその子供たちが義禁府にぶちこまれちゃいました。
病のハン・ミョンフェは自宅を兵に見張られ、息子ボと婿ユンバンが捕らえられます。
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