朝廷の大勢とおなじく反和親を主張するホン・イクハンら新進官僚が、
戸曹判書チェ・ミョンギル(遅川)の家に押しかけてしつこく説いていますが、
後金に負けるわけない!と思っている若造とチェ・ミョンギルでは話になりません。
王妃(仁烈王后)が危篤なので・・・と清国との交渉から逃げていましたが、
その王妃が仁祖13年12月9日に逝去。西原府院君ハン・ジュンギョムの娘で、
結婚して清城県夫人となった後、仁祖反正で王妃となり、42年の生涯を終えました。
清の使臣ヨンゴルテとマブデが王妃の殯殿で焼香したいと言い出しました。
錦川橋に天幕を張って架空の殯殿をつくっては?とキム・ジャジョムが提案。
ある強風の日、ヨンゴルテとマブデがハリボテの殯殿へ弔問に訪れます。
ところがすぐにニセモノだと見破り、おまけに兵に囲まれていると知って逃亡。
逃げる途中で子供たちに石まで投げられてお気の毒なヨンゴルテとマブデです。
重臣はこれに乗じて強気に出ようとし、チェ・ミョンギルだけが同意できません。
反和親だという国論を定めて民の士気を盛り立てる告由文を仁祖が表明しました。
都元帥にキム・ジャジョムを任命したほか、従事官にはチョン・レギョンを、
副将にアン・ヨンナムとイ・ワンを登用し、さらに朝廷も反和親派の顔ぶれに変更。
領議政キム・ユ、左議政ホン・ソボム、右議政イ・ホンジュ、吏曹参判キム・サンホン、
戸曹判書キム・シングク、礼曹判書カン・ソッキ、工曹判書チャン・ユとなり、
反対にチェ・ミョンギルは漢城判尹に左遷され、領議政ユン・バンは引退しました。
無礼に怒った清国皇帝ホンタイジが、仁祖14年12月6日に12万人を率いて出陣。
(あんな小国に12万も?と側近が驚いていたその内訳は清7万・蒙古3万・明2万)
丙子の年に起こったこの戦いは、丙子胡乱(へいしこらん)と呼ばれています。
平地では勝てないと推測した朝鮮は白馬・慈母・正方・長寿の山城に陣を張り、
反対に清軍が南進してくる道を防御するのを怠ってしまったそうです。
白馬山城を守る義州の府尹イム・ギョンオプは、たった800人の兵で迎え撃つため、
軍服を着せたカカシを用意し大砲を放って意気高く盛り上がるようすをアピール。
清軍は名高い名将イムとの戦いを避けて平壌(ピョンヤン)城へと向かいます。
12万の大軍はもちろん着々と都城へと近づき、朝廷はまた避難を議論するのでした。
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