朝鮮の天主教の光であり、柱であったイ・ビョク(広庵/クァンアム)。
6年前に講学会で天主学を学び、イ・ガファン(錦帯)との討論で名声を博します。
一族の要求に屈することなく、絶食して祈祷と執筆を続けた末、15日後に逝去。
洗礼名はヨハネ。33歳という若さで没したのは正祖10年(1786年)のことでした。
『天主密験記(チョンジュミロンギ)』はこの幽閉時期に書かれたとされています。
チョン・ヤギョンは天主教の始祖イ・ビョクの業績をたたえる詩を書きました。
そしてこの頃から党派の争いが激化します。天主教を信仰したのは主に南人派で、
大妃(貞純王后)や刑曹判書キム・ファジンやシム・ファンジらは僻派(老論派)。
正祖側近のチェ・ジェゴンは南人派ですが実学派でもあるようで、
天主教を無理に禁じるよりも儒学を奨励すればよいのでは?と主張しています。
地方では、殉教者となったキム・ボムなどの努力で布教が進んでいました。
さらに今回、イ・ビョクの死に感銘を受けた地方在住の二人が洗礼を願い出ます。
それが、全羅道進士ユン・ジチョンと、いとこのクォン・サンヒョン。
洗礼名パウロとヤコブのこの二人によって、有名な「珍山事件」が起こります。
5歳の文孝(ムニョ)世子が熱を出し、正祖10年5月11日に亡くなりました。
文孝世子は孝昌(ヒョンチャン)園(現在の孝昌公園)に眠っているそうです。
昼まで元気に遊んでいたのにおかしい!毒です!と訴える生母・宜嬪(ウィビン)。
私が疑われているので捜査してください・・・と綏嬪(スビン)が正祖に願いました。
証拠があるわけじゃないし事を荒立てて悲劇を生みたくないと考えている正祖は、
天主教の仕業よ!としつこい大妃(貞純王后)に「政治に口出すな!」とピシャリ。
これにより正祖と仲たがいした大妃は、勝手に勅書を出しちゃいました。
世子の師匠であるクォン・チョルシン(鹿庵)の立場がちょい悪化しそうです。
その4ヶ月後、二人目を身ごもっていた宜嬪が、妊娠7ヶ月で他界しました・・・。
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