光海君10年(1618年)11月、都元帥カン・ホンリプ率いる1万3千人が昌城へ。
しかし鴨緑江(アムノッカン)は渡らず、情勢を見るという作戦を続けます。
左議政パク・スンジョンに催促されても頑として動かないカン・ホンリプでした。
年が明けて光海君11年(1619年)、久々に綾陽(ヌンヤン)君が登場です。
西宮の大妃(仁穆王后)の暮らしぶりは『癸丑(ケチュク)日記』によると、
「米をといでいるときにカラスが種をくわえてきた。2年目に小さな実がつき
4年目に大きなひょうたんの実が成った。カラスがくわえていた種の中に綿花も
混じっていた。それを植えて綿を得た。さらには動物のふんの中から野菜の種を
手に入れた。キジの首に入っていたもろこしの種を植えて秋に大量の実をつけた」
済州島に送られた大妃の母ノ氏は、酒かすを恵んでもらって命をつないでおり、
そのせいでいつも酔っていたので人々は「母酒(モジュ)」と呼んでいたとか。
また「酒母(チュモ)」という言葉もノ氏のことが元になっているそうです。
光海君と王妃ユ氏との会話を知りたいキム・ゲシ尚宮が中宮殿のパク尚宮を追及。
いくら賄賂をつんでもパク尚宮が話さないのでキム尚宮がムカついています。
お喜びください!カン・ホンリプが鴨緑江を渡りました!と臣下が光海君に報告。
でも光海君はぜんぜんうれしそうではなく、臣下は「?」ってな顔をしてます。
カン・ホンリプは鴨緑江を渡り2日間行軍。鶯児溝(えんあぐ)に陣を敷き
野営を命じて行程遅延を狙いましたが、明の都督・劉は喬を送って出兵を要請。
カン・ホンリプは食料が届くまで待つと言い張り、兵もゆっくり歩かせます。
亮馬佃に着くとすでに劉将軍が発っていたので、これ幸いと野営して時間稼ぎ。
イラついた明はウ・スンウン将軍を送ってきて、刀を振り上げてせっつきました。
そこで仕方なく牛毛寨へ向かい、劉将軍と合流すると、ある作戦を打ち明けます。
「後金の将軍で朝鮮に出入りしていた者がいるので通事(トンサ)を送りたい」。
むやみに戦わず敵に内応者をつくればラクになるという作戦に劉将軍は同意。
やむを得ず出陣したという事情を通事を使って後金に知らせるつもりだったのに、
通事キム・オンチュに明の将軍が同行することになりカン・ホンリプは焦ります。
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