女人天下の人物紹介、今回は臣下たちの中でも士林派についてまとめます。
朝廷メンバーの中では唯一“正義”を感じさせる人たちでしたが
士林派も徒党のひとつといえばひとつな気がするし
あの陰謀・策略だらけの時代に現実には果たしてどこまで清廉だったのか
ちょっぴり疑問を抱いてしまうひねくれた私でございます。
<士林派な人々>趙光祖(チョ・グァンジョ)皆さまご存じ!士林派といえばこのお方。
「チャングムの誓い」でもたびたび名前が登場した有名な学者です。
若くして中宗の寵愛を受け短期間で大司憲へと昇格。
儒教以外のものは排斥される時代でしたから
祭祀とか風水を司る「昭格署」という機関の廃止を求めた結果
王室側や功臣派などと大揉めに揉めて廃止を実現しました。
これで勢いづいた士林派はその後、
賄賂で地位を得た臣下を追放する過激な「偽勲削除」も提案。
身の危険を感じた功臣派からついに陰謀にハメられることに。
「走肖為王」とくりぬかれた葉っぱをネタに反逆心ありとされ
流刑・賜死させられてしまいます。(己卯士禍)
「すぐれていたが若いため中宗の気持ちを量れず理想主義だった」
などという歴史的な評価があるそうです。
イ・ジャンゴンチョ・グァンジョが功臣派から命を狙われだしたと知り商人ペクに護衛を依頼した人。
このときの地位は右賛成兼兵曹判書でした。
兵曹判書は兵を司る役目ですから、御命に従いチョ逮捕の指揮をとることになります。
そのときチョに無礼な振る舞いをしようとする役人たちに
「この方は大司憲だぞ!無礼な口をきくな!」と一喝し
チョの逮捕後も一貫してチョの擁護にまわりました。
その甲斐むなしく、チョ一派のひとりとされてしまい、己卯士禍で罷職されます。
かつて大司憲だった時代にチョ・グァンジョに連れられて革靴屋に行ってますが、
そのときに希剛(ヒガン)という字を名乗っていました。
ヨンモ堂大監(アン・ダン)右議政や左議政を務めたおえらいお立場だった人。
チョ・グァンジョが若い頃から彼の才能を買い見守ってきましたが
イ・ジャンゴンと同じく己卯士禍で罷職されます。
その後朝廷に返り咲いたのに功臣派から逆謀の罪に陥れられ賜死。
(何度か書きましたが弔問客名簿を反逆人名簿とされたあの事件です)
辛巳誣獄(シンサムオク)という出来事だそうです。
このとき登場したのが偽証証人のソン。
このブログでは
ひそかにこちらで大話題となっています♪
守天大監(チョン・グァンピル)二度も領議政を務めた、士林派の大老的立場。眉毛の濃いお人です。
この方もチョが若いときから擁護してきましたね。
辛巳誣獄のときにヨンモ堂大監をかばったり
灼鼠之変の余波が漂う朝廷で中宗に意見してクビになったり
また復帰したと思ったら希楽堂大監(キム・アンロ)から再度追放されたりと
この方は何度罷職されているのでしょうか・・・。
ユン・ウンポ終盤から登場する人。いつも物事を冷静に見て公論に動かされず
中宗にはっきり意見を述べていました。
灼鼠之変の余波のときにもはっきり意見したらクビになりましたね。
その後復帰して、最後は領議政にまで登りつめるようです。
李彦迪(イ・オンジョク)「晦斎」と呼ばれてた人です。有名な性理学者だそうです。
中宗にはっきりと意見を述べすぎてましたね。
希楽堂大監が復帰するときも面と向かって「卑しい輩」と反発。
希楽堂黄金時代に飛ばされ、戻ってきたら再度小ユン派から飛ばされます。
たぶんその後は出世したのではないかと思うのですが・・・
巴陵君(パルングン)大監宗親(王族)なので士林派ど真ん中というわけでもないのですが
チョが若い頃からチョの才能に目をつけて擁護してきた人。
士林派からの信頼あつい人だったようで、
中宗に何か抗議をしたり申し入れをするときも士林派と同意見でした。
それと・・・ずっと冷静で誰とも徒党を組まず公論に流されることのなかった
都承旨やパク承旨はどこに入れるべきなんでしょうね?
嫡子の世子が当然と思う面では世子派なんですが、ちょっと違いますよね。
士林派なのか、何派でもないのか・・・わかりません~
チョ・グァンジョ‥身分で人を差別しないし、キョンビンを怒鳴りつけた時、
惚れましたね。
ユン・ウンポ‥一目で、卑しい輩じゃないと分かる風貌が、素敵。
晦斎‥ああ、こんな人までうれしい。短かったけれど、気に入ってました。
よだれの出そうなページですね。ごちそうさまでした~♪