先日「女人天下」の記事を見直していて、重大なことに気づきました。
愛する敬嬪をクローズアップした記事を書いていないではありませんか!
(「中宗の側室たち」としてヒ嬪・昌嬪と一緒にまとめた記事は
こちらにあります)
ということで、敬嬪についてまとめてみたいと思います。
とはいえ、ドラマではあれだけ存在感のあった敬嬪ですが、
“一介の後宮ごとき”(王妃弁)でしたし、王の生母でもないので、情報が少ないです。
韓国語や中国語ページの翻訳情報も絡めながらご紹介していきます。
敬嬪朴(パク)氏の生年は不明。本貫は密陽(たぶん)。
尚州の貧しい士族・朴秀林(パク・スリム)の娘として生まれました。
燕山君時代の「採青女使(チョチョンヨサ)」により1505年に女官となります。
1506年の中正反正で一等功臣となった朴元宗(パク・ウォンジョン)=平城君が
後宮に勢力を持つために縁故者を探していたところ、遠縁の娘(敬嬪)を発見!
(本貫が違うので親戚ではないという記述も韓国wikiで最近発見しました)
パク・ウォンジョンの養女となり淑儀に封じられました。
中宗の寵愛を受けて1509年に中宗の長男である福城君を生んだのに加え、
1512年に恵順翁主、1514年に恵静翁主をぞくぞくとご出産!
※
敬嬪ファミリーについてはこの記事にまとめています。
1515年に章敬王后が逝去すると、王妃になるチャンス!がやってきます。
このときのことが、『朝鮮王朝史』にはこう記されています。
「この隙に乗じて、敬嬪朴氏は野望をたくましくしていた」。
「福城君の方が年長だし、当時誰よりも中宗の寵愛を受けていたからだ」。
ただ、中宗にもっとも愛されてはいましたが家門がよくないのがネックでした。
さらに、
士林派が引き金となり廃妃慎氏の復位問題も勃発。なんやかんやで残念ながら王妃にはなれず、かわりに敬嬪に封じられました。
(「女人天下」では、お手つき♪→翌日敬嬪に昇進!とありえない設定でしたね)
1519年に
「走肖為王」の虫食い葉で趙光祖(チョ・グァンジョ)ら
士林派を粛清した己卯士禍(キミョサファ)が起こりますが、
これは勲旧勢力が敬嬪などの後宮を利用して起こした事件だと明記されています。
『朝鮮王朝史』によると、中宗の耳に念仏のようにいろいろ吹き込んだのは
熙嬪洪氏(「女人天下」あらすじではヒ嬪と表記)だそうです・・・。
1527年、
灼鼠之変が起こり、側室やその侍女が疑われる中、
大妃(貞顕王后)が次のような声明を出します。(敬嬪のこと嫌ってたんですかね)
「東宮で見つかったネズミはさておき、大殿のネズミは敬嬪を疑わざるを得ない」。
ってことで敬嬪は廃庶人となり尚州へ流刑。福城君と翁主も追放されました。
復活を待ち望むも、その願い空しく、1533年に賜死されます。
意外ですが、ネズミ事件で流刑されてから尚州で6年間生きていたのですね・・・。
この灼鼠の変は「金安老の息子・金禧が沈貞、柳子光を除去する目的で」起こされ、
(沈貞=シム・ジョン=華川君、柳子光=ユ・ジャグァン=武霊君)
「無実の敬嬪・朴氏と福城君が殺されたりした」と『朝鮮王朝実録』にあるように
敬嬪の無実はかなり明白なようです。ウィキには孝恵公主の名前も出ており、
『王妃たちの朝鮮王朝』ではナンジョンの関連も指摘されています。
本物の敬嬪がカメラ目線で憎憎しげに
ヂョ~~~グゥ~ワ~~~ンジョォォォォォ!とかチュンジョォーーンッ!と叫んだり、
テレパシーで王妃やナンジョンと会話したわけではありませんが、
あんなに楽しませてくれてありがとう・・・♪♪♪と
いつか敬嬪のお墓にお参りしてお礼を言いたい私です。
そんな歴史ツアー、してくれないですかねえ・・・。一箇所にただ行くだけならできるけど、
この訪問にはガイドさんがほしいし、効率よくまわりたいし!
キョンビン様のお墓、行ってみたいです~難しそうだけど(笑)
キョンビン様には娘さんもいるんですね。女人天下には出てきたかな‥?
グアンジョに向けた怒号はドラマですごくて(笑)、記事を見ながらあれはすごかったなーと懐かしく思い出しました。
それに、ドラマでは流されてから亡くなるまで6年とは思えなかったですね。数ヶ月くらいの勢いに見えました。しかも煕賓がいろいろ中宗に言ってたなんて、ドラマでは間抜けライバルだったので意外!